一青妙さんの両親は台湾人と日本人です。母親は東京生まれ。父親は台湾五代財閥のひとつ「顔家」の長男。父親が亡くなったのは妙さんが14歳のとき。肺がんの告知を受けられず、死の直前まで「だんまり」を続けていた父親と家族を結んだのは、母親の手料理だったといいます。そんな母親も妙さんが23歳のときに急逝。思い出を振り返ります――。

※本稿は「プレジデントウーマン」(2018年2月号)の連載「母の肖像」を再編集したものです。

亡くなった父と母の手紙と日記で初めて知ったこと

最初に書いた『私の箱子(シャンズ)』は父の人生をたどる物語でした。きっかけは、台湾人の父と日本人の母、私と妹の4人で暮らした家を取り壊すときに段ボールの中に見つけた赤い「箱子(シャンズ)」。そこには、父から母への手紙、母から父への手紙、母が書き残した日記などが入っていたのです。

母の一青かづ枝さんは1944年東京都生まれ。7人きょうだいの5女として育つ。生命保険会社で働いた後、美容師免許を取得した。20歳を過ぎた頃に台湾人の父と出会い、70年に結婚して台湾へ。妙と6歳違いの窈(よう)を授かった。

父は私が14歳のときに亡くなり、23歳になる年に母も逝きました。それから十数年後、親族や知人を訪ねると、父の過去を語ってくれる人はたくさんいました。けれど家族の記憶をさかのぼると、母について何も知らないことに気づいたのです。

父は台湾五大財閥の1つである顔家の長男。昭和一桁生まれの父は幼少期から日本で教育を受け、40歳を超えてから16歳下の母と出会いました。2人は恋に落ちて結婚を決意しますが、母はそこで初めて、父の実家が台湾の大財閥であることを知らされたようです。

母が結婚する前に父へ送った手紙には、日本でつましい家庭に育った自分が顔家に受け入れられるのかという不安が綴られています。父が心配はいらないと伝え、母もようやく決心したのでしょう。そうした父との出会いや母の思いは生前に知る由もなかったけれど、残された手紙や日記などからパズルをはめ込むようにたどり、2冊目の『ママ、ごはんまだ?』という物語を書きました。