「あなたが狂おしいほどに愛されるように」とは、全ての娘に贈られた言葉だ

アネットがルネや家族と水入らずで食事をする場面へ踏み込み、“自分を捨てた親族”と対峙してみせるエリザ。明らかに不穏でいたたまれぬ空気に事態を察したルネは、アラブ系への差別感情を露わにしながら自分たちの選択を正当化する言葉を並べる。しかしそこで、それまで自分の感情と人生を丸ごと封じ込めてきたアネットが、決然と口を開くのだ。「自分のことは自分で話すわ。私の人生よ」。

ここに、母と娘そして祖母という3人の女たちが、それぞれの時代の正義に迷いながらも適応をして生きてきたことが、観客へと示される。どの女もまた、誰かの娘なのだ。映画原題である『あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている』とは、アンドレ・ブルトンが著書「狂気の愛」最終章にて、奔放で困難な恋愛の末に生まれた愛娘へ送ったメッセージ。この一文を自分の宝物のように大切にして生きてきたというルコント監督は、すべての“娘”たちへ、この言葉を分け与えたのだと思う。

 

診療所で、腰を痛めたアネットの身体にエリザが自分の母と知らずして施術する、肉感的ながら神聖にも感じられるシーンがある。“手技”として母の肌を撫で上げ、“療法”として母を抱きかかえる。子宮底筋が緩んでいるせいで起こる軽度失禁を恥じるアネットの姿に示唆されるのは、“女”としての老い。そのアネットが、エリザに「前にしてくれたように、もう一度抱きかかえてほしい」と乞う場面では、親と子の関係を分断した母であるはずのアネットの側が寂しく愛を乞うていることに、ハッとさせられる。彼女の人生もまた長い間“匿名”であり、すべてを押し殺してきたのだ。

「彼に似ている。同じ瞳よ」。

公園で遊ぶノエを眺めながら、アネットは映画が終わる直前、最後のシーンになって初めて、かつて愛し子を成した異国の男について自分の口から語る。事実とともにようやく人生を解放した母親、そして自分の人生の失われた部分を取り戻した娘。彼女たちへ贈られた「狂おしいほどに愛されるように」との言葉が、同じ“誰かの娘”であるすべての女性の胸に響く。

フランス映画『めぐりあう日』は、岩波ホール他にて7月30日公開。(C)2015 - GLORIA FILMS - PICTANOVO
 
河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。