日本でかつて赤ちゃんポストの設置が議論されたのは、日本では母親に出生届を出すことが義務づけられており、望まぬ妊娠・出産をした結果、母親が育児放棄をしてしまうために起こる不幸を防ぐためだ。一方フランスでは、出産後、子供を養子や養護施設などに預ければ、母親として身元を明らかにしなくて良い「匿名出産」という制度がある。しかし母親の匿名性を守る権利は、中絶されずに済む多くの命を助ける半面、子供にとっては「自分がどこから来たのか知りたい、自分の不確かさ」につながってしまう。匿名出産を描く仏映画『めぐりあう日』は、親子の形について深く考えさせられる作品だ。

出産の事実と人生それ自体を封じ込める母親、自らの「起源」に不確かさを抱える娘

望まない、望まれない妊娠は常に世界中で起こっている。だがフランスでは、合法の堕胎期間を過ぎてしまった女性が望まぬ出産を終えたのち、子どもを適切な養護施設に預けるなどして、母親としての自分の情報を一切秘したまま歩み去る権利が法律で保護されている。それが「匿名出産制度」だ。

それは、合法の堕胎期間を過ぎて育ってしまった胎児が、無事に生まれ落ちる権利を保護するものでもある。だが、その子が長じて母が誰であるかをどんなに知りたいと願っても、母親側が公表を拒否する限り、母について知らされることはない。孤児は、自分がどこから来たのかを知ることができないまま、まるで糸の切れた風船のように、ただ浮遊し流されていくようにして命を紡いでいくしかない。

孤児として育った自己の存在の不確かさを確かにするとの思いを胸に、パリを後にするエリザ。『めぐりあう日』(C)2015 - GLORIA FILMS - PICTANOVO
 

映画『めぐりあう日』は、自身も養護施設で育った女性監督、ウニー・ルコントが「孤児と養子縁組」というテーマで取り組む3部作の2作目。韓国人として生まれ育ちながらも9歳でフランス人牧師夫婦に引き取られ渡仏し、その後フランス人として育ったルコント監督が「過去と現在を和解させることは可能なのかという問いに挑んだ」作品である(映画パンフレットより)。過去と現在を分断したもの、それはこの“匿名で歩み去る”出産女性の選択だ。

匿名出産を行ったことで、出産の事実とその後の人生を封じ込め、小さな田舎の港町ダンケルクで独り身で老いていく母親アネット。一方、孤児から長じて理学療法士となり、十分に幸福な結婚にも子にも恵まれたものの、自らの存在の不確かさを確かにしたいとの想いを抱えて夫を後にした娘エリザ。エリザが自分の息子ノエと共にパリを離れ、出生記録をたどって自分が生まれた病院のあるダンケルクへと移ったとき、一度分断されたはずの母と娘それぞれの人生が、この町で交差する。

差別が鍵となる

エリザの息子・ノエは、白人女性らしい容貌のエリザとは少し異なり、中東を思い起こさせる浅黒い肌に、エキゾチックな顔立ちをしている。ノエがダンケルクの小さな市場でちょろちょろと歩き回ると、地元の客が「バッグに気をつけなさいよ」と連れに耳打ちする。“アラブ系は貧しいから盗みを犯す”との残酷な差別意識がふと表出する場面だ。その耳打ちされた女性はアネットであり、耳打ちした女性はアネットの母ルネである。ルネの世代、フランスでアラブ系は「平和を乱す、招かれざる客」と認識されてきた。

(C)2015 - GLORIA FILMS - PICTANOVO
 

アネットが匿名出産をせねばならなかった理由は、まさにこのアラブ系への差別だった。“アラブ男”と結ばれて子を宿した若き日のアネットに母のルネは堕ろせと迫るが、出産の日はやってくる。匿名出産を条件としてアネットは再び親元へ帰り、そのままルネの階下のアパートで独り暮らしてきた。地元の小学校で食堂の補助職員として細々と生計を立てるアネットは、口さがない子供たちにその大柄な風貌を“ピットブル”と馬鹿にされ、それを叱りつけるだけで有効な指導法も持たない、不安そうな中年女性として描かれている。

だがアネットが転入生ノエのエキゾチックな顔立ちに気づき、たまたま腰を痛めてかかった診療所の療法士エリザがノエの母親であること、そして中東の特徴が色濃いノエではなく白人らしい容貌のエリザのほうが養子であると告白されたことで、「事実を隠してきた母」と「事実を隠されてきた娘」のパズルのピースが符合する。しかし、あれほど知りたかったはずの事実は、長い間自分の“起源”を求めてきた娘エリザにとって、怒りなしに簡単に受け入れられるものではなかった。

「あなたが狂おしいほどに愛されるように」とは、全ての娘に贈られた言葉だ

アネットがルネや家族と水入らずで食事をする場面へ踏み込み、“自分を捨てた親族”と対峙してみせるエリザ。明らかに不穏でいたたまれぬ空気に事態を察したルネは、アラブ系への差別感情を露わにしながら自分たちの選択を正当化する言葉を並べる。しかしそこで、それまで自分の感情と人生を丸ごと封じ込めてきたアネットが、決然と口を開くのだ。「自分のことは自分で話すわ。私の人生よ」。

ここに、母と娘そして祖母という3人の女たちが、それぞれの時代の正義に迷いながらも適応をして生きてきたことが、観客へと示される。どの女もまた、誰かの娘なのだ。映画原題である『あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている』とは、アンドレ・ブルトンが著書「狂気の愛」最終章にて、奔放で困難な恋愛の末に生まれた愛娘へ送ったメッセージ。この一文を自分の宝物のように大切にして生きてきたというルコント監督は、すべての“娘”たちへ、この言葉を分け与えたのだと思う。

 

診療所で、腰を痛めたアネットの身体にエリザが自分の母と知らずして施術する、肉感的ながら神聖にも感じられるシーンがある。“手技”として母の肌を撫で上げ、“療法”として母を抱きかかえる。子宮底筋が緩んでいるせいで起こる軽度失禁を恥じるアネットの姿に示唆されるのは、“女”としての老い。そのアネットが、エリザに「前にしてくれたように、もう一度抱きかかえてほしい」と乞う場面では、親と子の関係を分断した母であるはずのアネットの側が寂しく愛を乞うていることに、ハッとさせられる。彼女の人生もまた長い間“匿名”であり、すべてを押し殺してきたのだ。

「彼に似ている。同じ瞳よ」。

公園で遊ぶノエを眺めながら、アネットは映画が終わる直前、最後のシーンになって初めて、かつて愛し子を成した異国の男について自分の口から語る。事実とともにようやく人生を解放した母親、そして自分の人生の失われた部分を取り戻した娘。彼女たちへ贈られた「狂おしいほどに愛されるように」との言葉が、同じ“誰かの娘”であるすべての女性の胸に響く。

フランス映画『めぐりあう日』は、岩波ホール他にて7月30日公開。(C)2015 - GLORIA FILMS - PICTANOVO
 
河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。