“職業人”と“家庭人”の両立は無理!と心折れる40代男性たち
「”職業人としての自分”と”家庭人としての自分”の両立の狭間で折れる男」を、当事者である40代男性たちが言い出している。
○「1人ブラック企業化」するしかない父親たち(おおたとしまさ)
http://toyokeizai.net/articles/-/122598
これらの書き手が、いわゆる団塊ジュニア世代の40代男性であることがとても興味深い。仕事での充実と、サラリーや出世で外部評価される高いパフォーマンス性を維持しながら、さらに家庭でも理想のパパかつ夫であろうとするのは不可能だということを、彼らは“男の沽券”などの形式的で伝統的な精神習慣にとらわれずに、素直に認めたのだ。
彼らは「仕事と家庭の両立が苦しいのは女性だけじゃない。いま世間から求められているハイレベルな両立は、男だって無理だ」と、日本社会に巣食う「現実を無視した、観念としてのワーク・ライフ・バランス」を指摘した。そして、時流も世間の期待も妻の気持ちもきちんと読んで本当に頑張っている“真っ当なほうの”全国のビジネスマンたちから、「よく言ってくれた」と共感を集めている。2000年代から一通り、職業人としても家庭人としても「世間一般の期待値以上に」応えてきた40代だからこそ分かる社会の欺瞞(ぎまん)、それを言い当てているのだ。
中高年男性が「世間の仮想敵」として座りがいいわけ
この現代社会の欺瞞とは何か。“妻”側でものする私が言うのはとても勇気の要ることだが、それはこれまで、日本の“夫”たち、あるいは中高年男性という存在が「世間の共通の仮想敵」として非常に座りが良く、特にこの数十年、体力や経済力という資源面で比較優位にあるがゆえに「まるでわかってないバカ男、ずるいヤツら、搾取する側、世間の不平等感の戦犯」という十把一絡げのサンドバッグになってきたということだ。比較優位にあるとは、本当に強者であるかどうかはさておき弱者ではないということだから、どのメディアが舞台となっても「叩いても責めても大丈夫」とされるのである。
だから、「責められるべき優位者」たる中高年男性が吐く弱音は、すべて愚痴やボヤキ、戯言くらいに軽視されてきた。かわいそうなくらいに人生を会社に吸い上げられている中高年男性は、実際の日本の労働力としてもっとも機能しているぶ厚い層であるにもかかわらず、その本音はメディア的に無視されてきたのである。基本的にメディアは弱者の味方だからだ。女性に(当の女性たちにとってもどうしようもなく)刻み込まれた被害者意識、男でも女でも若年層の理由なき反抗精神、そしてひとたび集団になるとたちまちなぜかマッチョな精神論への執着を手放さなくなる日本の企業社会が、絶対耳を傾けず、認めてやらないもの、それが働き盛りの男たちの弱音だった。
ところが、かつて若き日はそんな働き盛りの中高年男性を批判する側にあったはずの団塊ジュニア男子が、いざ自分たちも大挙して40代に突入し、職業人生の傍らに家庭を持ってみて疑問に思ったのだ。「責める側にいたはずの俺が、かつてのあのオジさんたちと同じ、責められる側にいる。これは個人の資質なのではなくて、構造の問題なのではないか?」と。
そう、老いも若きも、男たちはみな同じ延長線上にいた。40代はいま、20年余の会社人生を過ぎて、それに気づいたのだ。気づく余裕ができた、とも言えるかもしれない。