「イクメンとかイクボスとか、もう無理」……男たちが自己申告で折れ始めている
イクメン、イクボスといった用語が普及するにつれ、いま一番歪(ひず)みが生まれている場所があるとすれば、どこだろうか。それは、今まさに子育てをしている30~40代の夫婦関係である。
名の知られた一流企業で正社員として働いてきた妻が、出産後も当然のこととして復帰し、ワーママとして歩み出す。世間では女性活躍の追い風が吹き、職場や家族の理解も取り付けられ始め、それはいま社会的に異論を挟む余地のない“正義”だ。
ところが、そういう女性と結婚している夫もまた、妻と同様に一流企業勤めだったり将来を嘱望されていたりと優秀な人材であることが多い。出逢っている場所が大学や社内や取引先や友人の紹介による合コンなのだから、拘束される時間の長い組織人同士、“同等の人材で番(つが)う”のは自然な流れだと言える。
夫側もちょうど30~40代で「もう俺も家庭を持っていいかな」と余裕が出るほど職業人として脂の乗ったところに家庭人としての要請が上乗せされ、それが世間や自分世代の潮流と受け容れた夫が、”できる男”なら俺もやらねばと応え続けるうちに、実はワーママ周辺の環境と違ってそんなイクメンを受け入れる準備も具体性も(つもりも)ない世間の現実の前に、力尽きて折れるのだ。
“職業人”と“家庭人”の両立は無理!と心折れる40代男性たち
「”職業人としての自分”と”家庭人としての自分”の両立の狭間で折れる男」を、当事者である40代男性たちが言い出している。
○「1人ブラック企業化」するしかない父親たち(おおたとしまさ)
http://toyokeizai.net/articles/-/122598
これらの書き手が、いわゆる団塊ジュニア世代の40代男性であることがとても興味深い。仕事での充実と、サラリーや出世で外部評価される高いパフォーマンス性を維持しながら、さらに家庭でも理想のパパかつ夫であろうとするのは不可能だということを、彼らは“男の沽券”などの形式的で伝統的な精神習慣にとらわれずに、素直に認めたのだ。
彼らは「仕事と家庭の両立が苦しいのは女性だけじゃない。いま世間から求められているハイレベルな両立は、男だって無理だ」と、日本社会に巣食う「現実を無視した、観念としてのワーク・ライフ・バランス」を指摘した。そして、時流も世間の期待も妻の気持ちもきちんと読んで本当に頑張っている“真っ当なほうの”全国のビジネスマンたちから、「よく言ってくれた」と共感を集めている。2000年代から一通り、職業人としても家庭人としても「世間一般の期待値以上に」応えてきた40代だからこそ分かる社会の欺瞞(ぎまん)、それを言い当てているのだ。
中高年男性が「世間の仮想敵」として座りがいいわけ
この現代社会の欺瞞とは何か。“妻”側でものする私が言うのはとても勇気の要ることだが、それはこれまで、日本の“夫”たち、あるいは中高年男性という存在が「世間の共通の仮想敵」として非常に座りが良く、特にこの数十年、体力や経済力という資源面で比較優位にあるがゆえに「まるでわかってないバカ男、ずるいヤツら、搾取する側、世間の不平等感の戦犯」という十把一絡げのサンドバッグになってきたということだ。比較優位にあるとは、本当に強者であるかどうかはさておき弱者ではないということだから、どのメディアが舞台となっても「叩いても責めても大丈夫」とされるのである。
だから、「責められるべき優位者」たる中高年男性が吐く弱音は、すべて愚痴やボヤキ、戯言くらいに軽視されてきた。かわいそうなくらいに人生を会社に吸い上げられている中高年男性は、実際の日本の労働力としてもっとも機能しているぶ厚い層であるにもかかわらず、その本音はメディア的に無視されてきたのである。基本的にメディアは弱者の味方だからだ。女性に(当の女性たちにとってもどうしようもなく)刻み込まれた被害者意識、男でも女でも若年層の理由なき反抗精神、そしてひとたび集団になるとたちまちなぜかマッチョな精神論への執着を手放さなくなる日本の企業社会が、絶対耳を傾けず、認めてやらないもの、それが働き盛りの男たちの弱音だった。
ところが、かつて若き日はそんな働き盛りの中高年男性を批判する側にあったはずの団塊ジュニア男子が、いざ自分たちも大挙して40代に突入し、職業人生の傍らに家庭を持ってみて疑問に思ったのだ。「責める側にいたはずの俺が、かつてのあのオジさんたちと同じ、責められる側にいる。これは個人の資質なのではなくて、構造の問題なのではないか?」と。
そう、老いも若きも、男たちはみな同じ延長線上にいた。40代はいま、20年余の会社人生を過ぎて、それに気づいたのだ。気づく余裕ができた、とも言えるかもしれない。
社会が変われば、活躍する男性像も変わってくる
厳しいことを言うようだが、実は私たち女性の側にも思考停止がある。
男性中心に構築された、「男の、男による、男のための労働社会」という女性にとってはどうにも走りにくいボコボコの道路で行われる市民マラソンへ“二流市民”として参加させていただいて、そこから頭角を現し、「へぇ、女でも走れるやつもいるんだな」とちょっとずつ認められていくのが20世紀だったとするならば、女性の労働参加が当然とされた21世紀は、いわば女性でもマラソンで好タイムを残すべく走れる条件の道路が親切にも整備される時代といえる。
走る女の前に道路が敷設されているのか、あるいは走った後から舗装されていくのか。その辺の感じ方は個人差があると思うけれど、とにかくそのマラソンには参加しろと言われている。しかも沿道から応援観戦するよりも、ランナーとして参加する方が社会的な尊敬を得るという風潮である。
ところが、男女ともに走れるように道路設計が変わるということは、それまで男専用にデザインされた道を走っていたり、それを念頭にいつか俺もランナーになるんだと幼少期からトレーニングに励み成長してきた男にとっては、走りにくい局面も出てくるのだ。途中棄権する男も出てくるだろう。あるいは、従来の男専用道路ではとても走れなかったようなタイプの男が、意外に良い走りを見せたりする。
挙げ句に「夫の死を願う妻たち」
こうして世間では「走れる選手像」に変化が見られてきているのにもかかわらず、女たちの好みは、相変わらず過去のマラソンで好成績を残していたような選手たちのまま変わらないとすれば、どうだろう。
自分の配偶者に従来型の「稼げて、出世もする」マッチョな男像を望みながら、一方で「新しい社会に応じた家庭力」も上積みして求める。自分に置き換えてみて「人生途中で世間の風向きに応じて生き方を変えて、新しい能力を上乗せする? そんなの簡単!」と言い切れる女性なら、既にそんな男を手に入れているのかもしれない。だけどみな、それぞれに不満や不足を感じ、キャパシティオーバーに悩み、試行錯誤し、理想と現実のすり合わせをしているというのが、現代の30~40代夫婦の等身大の姿なのではないだろうか。なぜなら、今の風向きを幼い頃にきちんと予見して育ってきたような人は決して多数派ではないからだ。むしろいま社会で「もっとも働いている層」とは、幼少期や学生時代には多かれ少なかれマッチョな社会での勝者だったはずである。
その価値観の変化を女性側で起こしていないにも関わらず、男性にあれもこれもと求めれば、夫婦間での激しい食い違いが起こるのは必然だ。挙げ句、世間体が悪いので離婚はしないが、夫が死んでくれるのを願う妻たちの存在が指摘されている。過去の数世代上の妻たちとなんら変わりのない姿に、自分たちが成り果てているのに気づかないだろうか?
エリート“お仕事女子”こそ、ダブルスタンダードだ
「なぜ、うちの夫はこんなにも家事能力も育児能力も女の心理を読む能力も低くて、使えないのか」。社会のせいや、姑のせいにするのは簡単だが、答えは「彼らは私たちが選んだ男であり、私たちは彼らが選んだ女だから」なのである。社会趨勢に応じた“変化”や“意識改革”の責任は、男女双方にあるのだ。
結婚・出産後も一流企業でエース級のキャリアを継続するアラフォー女性が、他業種にいるエリート夫への憎悪の言葉を吐き、それを「超」のつくエリート夫と結婚した超エリートワーママが請けあって毒づき笑い合う場面に遭遇したことがある。でも、彼女たちはまずきっと離婚はしない。自分の代わりに“主夫”になってくれるような、稼げないし社会的ポジションもないけれど優しくて癒してくれる男を選ぶつもりも毛頭ない。“上昇”と“常勝”にとらわれているエリート女子の内部には、相反する価値観がなぜか自然に共存しており、賢い彼女たちはきっとそれに気づいているけれど、無意識のうちに押さえ込んでいる。そんなダブルスタンダードを抱えて生きるとは、男も女も、なんだか、ただ辛い。
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。