子どもと会えない日々が続いた、客室乗務員時代
大川さんのキャリアのスタートは国際線の客室乗務員。当時、女性のあこがれの職業だったが、本人は最初から“スチュワーデス”を夢見ていたわけではなかった。
東京理科大学の薬学部で学んでいた大川さんは、4年生になって医薬品メーカーや化学メーカーの就職面接を受けていた。そんなとき新聞で、日本航空が客室乗務員を500人採用するという募集広告を見た。そこに1万人の応募があったという。
20倍の関門。よほど客室乗務員へのあこがれが強ければ別だが、そうでなければ敬遠してしまいそうな倍率だ。ところが本命に考えていた医薬品メーカーでは採用人数がたったの1人か2人。そんな数字を見てきた大川さんにとって、500人は、大きな可能性がある数字に映った。そして「試しに」と思って受けてみたら、合格してしまったのだという。
入社から訓練部の教官になるまでの十数年はほとんど空(そら)の人だった。その間に結婚、出産、後には離婚も経験した。
1カ月のうち20日間のフライトが組まれていた。一番心を痛めたのが幼いわが子とのスキンシップ。朝出て、夜帰ってこられる仕事ではない。子どもと会えない時間のほうが長い業務だ。
気持ちを楽にさせてくれたのは、今でも忘れられない保育園の園長の言葉だった。
「一緒にいないと愛情が薄くなるわけじゃないよ、10日しか子どもに会えなくても、その10日を3倍の濃さにできるんだと。それを聞いて、一緒にいるときはいつも子どもをハグしていましたね(笑)」
温かい助言をくれた園長や両親のサポートを受けながら働き続けることができた。そして、女性の“ガラスの天井”を突き破ることになる。
「当時、乗務員で入社したら、97年に私が就任したチーフパーサー(現チーフキャビンアテンダント)がほとんどの乗務員のゴールでした。その後、私が歩んだような地上職に移って間接部門の部長になったり、役員になるという将来は、まず考えられませんでした」
空の人は地上の人となり、管理職の道に入る。そして10年に自身のキャリアのクライマックスを迎えることになる。