コーポレートブランド担当の役員、大川さんは、結婚、出産などのライフイベントを越えて客室乗務員を続けてきた。管理職に昇格したのは47歳の遅咲きながら、そこから数々の改革プロジェクトを担うことに。最大の仕事は破綻した会社の再生だった。
世界一愛される航空会社をめざして
7cmのハイヒールを履くと格好良さがさらに増す。
「身長が173cmあるのでこれを履くとすごいことになるんですが、仕事への気持ちが高まるんです。高校生のときは地面にのめり込む靴を履きたいと思っていましたけど(笑)」
日本航空の取締役専務執行役員、大川順子さんは颯爽とした雰囲気そのままに、女性社員の先頭に立ってキャリアを切り開いてきた。
1994年に客室乗員訓練部のママさん教官第1号になった。2000年には、日本には当時まだ存在しなかった、客室乗務員向け安全関連の訓練、クルー・リソースマネジメント(CRM)の導入プロジェクトに携わった。また、07年に客室サービス企画部長に就任したときは、乗務員のパフォーマンスをヒューマン要素とテクニカル要素から評価するHTグレードを導入した。
「CRMは『誰が正しいか』ではなく、『何が正しいか』を前提とする訓練ですから、それを上の人にわかってもらわなくてはなりません。管理職からの風当たりも強かったですね。HTグレードのときも、目に見えないものを評価できるのかという批判はありました。失敗とまでは言いませんが、苦労は尽きませんでした」
どちらも会社にとってはまったく新しい試み。当然、摩擦も生じる。それでも、今、日本航空が掲げる「世界で一番に選ばれ、愛される」航空会社をめざすために、避けて通れない道だったろう。
大川さんは逆風をまともに受けながらも、いくつもの新しい扉を押し開けてきた。
子どもと会えない日々が続いた、客室乗務員時代
大川さんのキャリアのスタートは国際線の客室乗務員。当時、女性のあこがれの職業だったが、本人は最初から“スチュワーデス”を夢見ていたわけではなかった。
東京理科大学の薬学部で学んでいた大川さんは、4年生になって医薬品メーカーや化学メーカーの就職面接を受けていた。そんなとき新聞で、日本航空が客室乗務員を500人採用するという募集広告を見た。そこに1万人の応募があったという。
20倍の関門。よほど客室乗務員へのあこがれが強ければ別だが、そうでなければ敬遠してしまいそうな倍率だ。ところが本命に考えていた医薬品メーカーでは採用人数がたったの1人か2人。そんな数字を見てきた大川さんにとって、500人は、大きな可能性がある数字に映った。そして「試しに」と思って受けてみたら、合格してしまったのだという。
入社から訓練部の教官になるまでの十数年はほとんど空(そら)の人だった。その間に結婚、出産、後には離婚も経験した。
1カ月のうち20日間のフライトが組まれていた。一番心を痛めたのが幼いわが子とのスキンシップ。朝出て、夜帰ってこられる仕事ではない。子どもと会えない時間のほうが長い業務だ。
気持ちを楽にさせてくれたのは、今でも忘れられない保育園の園長の言葉だった。
「一緒にいないと愛情が薄くなるわけじゃないよ、10日しか子どもに会えなくても、その10日を3倍の濃さにできるんだと。それを聞いて、一緒にいるときはいつも子どもをハグしていましたね(笑)」
温かい助言をくれた園長や両親のサポートを受けながら働き続けることができた。そして、女性の“ガラスの天井”を突き破ることになる。
「当時、乗務員で入社したら、97年に私が就任したチーフパーサー(現チーフキャビンアテンダント)がほとんどの乗務員のゴールでした。その後、私が歩んだような地上職に移って間接部門の部長になったり、役員になるという将来は、まず考えられませんでした」
空の人は地上の人となり、管理職の道に入る。そして10年に自身のキャリアのクライマックスを迎えることになる。
「頑張ってね」の言葉に部下とともに涙する
日本航空は10年1月に経営破綻。その翌月、大川さんは執行役員(客室本部長)に抜てきされる。
「それまで客室本部長は地上職の男性が就いていたポジションです。しかし状況が状況ですから、乗務員の気持ちを誰よりもわかる人間が、再生の仕事をしなければならないんだなと思いました。正直、仕事に取り組む気持ちは大きく変わり、そこから修羅場が訪れます」
日本航空を復活させるためにリストラを進め、あらゆる制度を見直す必要があった。当然、社員にはつらい思いをさせるが、社外の多くの人に迷惑をかけた手前、それを口にはできない。しかも役員として毅然(きぜん)とした態度で改革を推進しなければならなかった。
大川さんは客室本部長として「おわびと感謝」という本部運営方針を出した。
「経営が厳しい中でも飛行機を毎日運航させていただくことができました。乗務員もいろいろと思うところはあったでしょうが、『まずはお客さまに誠心誠意、おわびと感謝の気持ちをお伝えし、フライトが終わったら話を聞かせて』と送り出したんです」
もちろん、破綻したことに激しい怒りをぶつけてくる人もいたが、「株主だったけど、これからも乗るから頑張ってね」と声をかけてくれる人もいた。涙ながらに話す乗務員の言葉に、大川さんも「涙がこぼれました」という。
今は新生日本航空のコーポレートブランドに責任を持つ。
「二度とあのような事態を起こしてはならない。この会社が日本にあってよかった、この航空会社がなければ困るという、存在感のある企業になっていかないといけないと思っています」
■大川さんの経歴
1977年(23歳)東京理科大学卒業(78年)/日本航空入社
1987年(33歳)結婚
1989年(35歳)国際客室乗員部パーサー
1990年(36歳)出産
1994年(40歳)客室乗員訓練部教官
1997年(43歳)国際フライト旅客部 チーフパーサー
2001年(47歳)第一客室乗員部 客室マネジャー
2006年(52歳)機内サービス部長
2009年(55歳)客室品質企画部長
2010年(56歳)執行役員/客室本部長
2013年(59歳)取締役専務執行役員
■Q&A
■好きなことば
小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり
■趣味
ピアノ、読書
■ストレス発散
飲む、食べる
■愛読書
『花埋(うず)み』渡辺淳一著
日本航空 取締役専務執行役員。1954年生まれ。77年日本航空入社、78年東京理科大学卒業。国際客室乗員部パーサー、客室乗員訓練部教官などを経て2010年から執行役員。13年より、取締役専務執行役員。