小学生男子に、戦後すぐの31歳独身女性の気持ちを考えさせる

当の主人公の姉とは、仕事を持つ31歳独身女性。しかも現代ではなく、戦後すぐの「31歳」「独身」「女性」だ。まず受験生の少年たちとは性別が違う。時代背景が違うから価値観も違う。当時の女性には社会的に何が期待され、どのような人生を送っていたか、12歳男子たちは持ちうる限りの知識を総動員して想像するしかない。そして31歳は親の世代でもなく、姉や兄でもそこまで年上はめったにいないから、身近な経験から判断する材料がない。だから難しい。書かれている内容から材料を集め、それを根拠として論理的に心情を考察し、編み上げ、答えるしかないのだ。

主人公・とも子は、戦中の小学生時代から隣人の帰国子女の男の子“順ちゃん”へ「理想の男性」と思いを寄せていたのだが、戦後まもなく彼は米国へ渡り、9年ぶりに26歳の青年となって帰国した。しかし彼は21歳の自分ではなく31歳の自分の姉に会いに帰ってきたことを察した主人公は、嫉妬の感情にとらわれて逡巡する。

「戦後、父母を亡くした姉妹の生活を細腕一つで支える姉という人物を描くなかで『頭をかっきりひっつめて、黒っぽい服を着て、おねえさんは、31になってしまった』という傍線部の意味を答えなさい」「恋心のあまり病に臥せってしまったとも子の様子に事態を察したおねえさんと順ちゃんが示し合わせ、順ちゃんに優しくされたとも子が口にした『大丈夫よ、あたし、やっとこれで小学(校)は卒業しました』との言葉の意味を答えなさい」……そんな設問が、当日の入試問題に並んだそうだ。聴衆の保護者からは、悲鳴に近い声が漏れた。

もちろんそういった、受験生の少年少女たちが自分の直接的な経験だけをもってしては答えられないような高度な文脈の読み取りを要求する文学的文章題は、他校でも散見されるものだ。今年の女子校の例では、私の母校が架空の生き物たちの社会を題材とした物語文を出題したという。国語科の先生が壇上から発した「架空の生き物ですからね。(子どもたちからかけ離れすぎて)もはや人間でさえありません」の言葉に、会場は爆笑した。

架空の社会の生き物もかなりの難度だけれど、12才男子に戦後すぐの20代・30代女性の心理を推測させる問題も相当である。これを女子側に例えるなら、12歳女子に、定年間近の男性サラリーマンが人生の分岐点を前にした感慨や不安を答えなさいと問うようなものだ。

若手や中堅の女性社員が、男性上司に対して「なんなの、どーなってんのアレ?」と陰口を叩き、おそらく同世代の妻でさえ「夫の考えてることなんてこれっぽっちも分からないし、カケラも興味ないわ」と突き放す中、小学校6年生の受験生少女たちは自分たちの主観など超越したところで懸命に文脈と発言内容を読み込み、見つけた材料で「論理的に」彼の「感情」をおもんばかる知的訓練を重ねている。

人の気持ちをおもんばかる力は、訓練で身につけられる

そう、人の気持ちをおもんばかるとは、生まれ持っての性格やセンス次第だと一蹴してはいけない。それは国語力と同じで、訓練であり、経験なのだ。そして、大方の諦めに近い認識とは異なり、感情は言語化し、論理化できる。

何を言いたいかというと、「男だとか女だとか、社会的所属がどうだとか、文化や人種がどうだとかで、単純化してラベル貼って切り捨てて、他者理解を諦めて放り投げちゃイカンよ」ということだ。人間である限り、私たちには時代や性別や文化を超越した普遍的な心の動きがあり、人類はそれをお互いに伝えるツールとしての方法論をいくつも発明してきたのだから。

「自分とは境遇や背景の異なる他者を理解すること、それが教養だ」と、ある著名な老学者は言った。大人だって(少なくとも私は)他人の気持ちが分からなくてしくじることばかりだというのに、そんなキョーレツに高度な「他者理解」の問題が小学6年生に対して出題されるということ、そして12歳の少年少女たちがその問題に果敢に取り組み、制限時間の中で想像しうる限りの全てを絞り出して答えたということに、私は「いやぁ~、この話を聞くだけでも、今朝原稿を急いで書き上げてここに来た甲斐あったわ~」とシビれまくり、なんならもう、半分くらい泣いていた。