フォーラムの様子については、ログミーで書き起こしが公開されているので詳しく読むことができる。当日の宮崎議員の状況はというと、年末年始ごろの様子から一変して非常に歯切れが悪かった。「今の状況はすごく非常に複雑でして、世の中に賛否両論あるなかで物議を醸して、大変多くの皆様に迷惑をおかけしている」「今はちょっとですね、あまりこう人前で話をしてはいけないという状況になっておりまして」とあまりの弱腰ぶりに、AERA編集長の浜田敬子氏も「(先週号の)うちのインタビューに出て頂いたのにどうしたのですか?」と指摘するほどだったのだ。
いま思えば、宮崎議員自身が各所でぼやいていた通り、彼の発言は「想像以上」に世間のあらゆるところに引っかかり、叱られる温度も褒められる温度も「めちゃツラいっすよ」と弱音を吐くほど高かったということなのだろう。あらゆる方面から彼の人生、人格まるごと“日本を代表するイクメン(候補)”と注目され担ぎ上げられるようになってしまった、その引き金を引いたことに彼自身がもっともおののいていたのだ。
彼はまだイクメン「候補」に過ぎない
そう、彼はまだ父親でもなんでもなかったのだ。フォーラムの時点では子どもはまだ妻のおなかの中にいたし、第一、まだ育休だって取っていなかった。
妻の妊娠に伴う変化に呼応して、「俺も父親になるんだし、何かしなきゃ」と育休取得を思い立って口にした未来のイクメン“候補”であって、実際には彼の中ではまだなにも起こっていなかったのだ。しかし、育休取得を宣言した途端、世間が「そいつはいい、頑張れ、みんな応援してるぞ!」と湧き立った。
母性は生物学的に形成されるが、父性は社会的に形成される。妻の中では、確実に生物的な反応として母になる準備が日々刻々と進んでいくが、産まぬ性たる男の中では目の前の妻の変化にただ驚き、「そうか俺は父親になるんだ」という意識だけが強くなり、でも逡巡して、なんだったら妻の態度に傷ついたりスネたり、将来が不安になったり、産まないのに“男のマタニティーブルー”になったりする。女性だって男性だって、親になるということはまるで自分が飲み込まれるような、それはそれは大きな変化である。それぞれに反応が出るのは当然のことなのだ。
宮崎議員の一件が、子育ての「ダメダメなリアリティ」になってほしい
男性の育児参加の話題につきものなのが、「真に子育てを理解している夫は稀」「結局モテたいアピール。承認欲求がチラつく」といった、ファッションイクメンへの鋭い視線だ。今回の宮崎議員の一件で、またそのレベルに議論が引き戻されるのは誰もが勘弁してほしいと思っているだろう。
男は、惑う生き物だ。女だって、惑う。逆に、この件を不潔だとかサイテーだとか言い放つ人々は、子育てが聖人君子だけに許された行いだとでも思っているのだろうか。子育てなんて、そもそも生産の過程からして非常に人間臭い営みのはずだ。育休議論は幕引きを迎えたのではなく、人間臭さから奇妙に乖離してお綺麗に無機的な制度として語られる子育てが、ようやく臭いや温度や肌触りといった「ダメダメな」リアリティを取り戻して語られる契機になればいい。
「本当に反省しています。一からやり直しです。やり直しだけど、やれるだけやっていきたい」と反省の言葉を口にしていた宮崎議員だが、12日午前、自民党本部へ辞職の意思を表明したと伝えられた。