わずか2週間で家康は強硬路線へ転じた
同博物館学芸員の菅原義勝は「新出の織田信雄書状にみる石川数正出奔」(『日本歴史』917号、2024年10月)で、この書状をもとに、家康が家臣団との協議で新たな人質の拒否を決めた10月28日のわずか2週間前の時点でも、秀吉との関係をどうすべきか思案していたと指摘している。
それがなぜ、強硬路線となり、数正の出奔へと繋がったのか。
ここで菅原は、柴裕之が『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)で取り上げた、信濃の有力国衆・小笠原貞慶の離反との関連から検討している。
数正は秀吉との取次を担当していただけでなく、貞慶に対しても家康の意向や指示を取り次ぎ、その進退を保証する立場にあった。つまり、貞慶の離反は数正にとって重大な責任問題となる。その貞慶は、10月17日付の秀吉書状(真田家文書)の時点で、すでに秀吉と通じていた。
つまり、新出の書状をもとにすれば、家康は新たな人質を差し出すこともやむなしと考えており、その調整役を数正が引き受けていたことになる。ところが家康は、10月28日の家臣団との協議で人質の拒否と秀吉との決別を決めた。わずか2週間での急転である。
菅原は、確証となる史料は残されていないとしつつ、時期と状況を併せみれば、10月下旬に貞慶離反の情報が家康のもとに伝わったことを想定すべきだとする。そして、これが徳川家臣団・国衆の秀吉への反発を招いた第一の理由だったのではないか、と考えている。
「裏切り者」にされかねない最悪の状況
これを数正の視点からみれば、状況は最悪だ。人質を出す方向で調整をしていたのに、家康の目には、秀吉が裏工作をして貞慶を離反させたと映る。しかも、貞慶のお目付役は数正である。そのうえ数正は、直前にも交渉のため秀吉のもとへ派遣されていた。
こんな状況で「秀吉は勢力もさることながら関白の地位も得ており、これに逆らえば朝敵になってしまう。ここは従いましょう」と融和論を主張すれば、「お前はなにをいっているんだ」と反発を招くのは必然である。
それどころか「担当している貞慶をなぜ離反させてしまったのか、お前はなにを見ていたんだ」「まさか、お前は裏切っているのではないか?」と疑いの目まで向けられかねない。
最悪のタイミングで、今川での人質時代以来の家臣という絶大な信頼が根こそぎ揺らぐ要素が揃ってしまったのだ。何を言っても聞いてくれる者はいない。裏切り者と噂されては、命も危うい。菅原も、数正が出奔を決断した背景には、信頼や発言力の低下にとどまらず、進退そのものが危うくなる切羽詰まった状況があったことまで想定しうるとしている。
こうしてみると、数正は何をしたのか。何もしていない。ただ、取次をしていただけである。なのに、周囲の状況がどんどん最悪になり「え?俺まで裏切り者?」になってしまったのである。ここまで不運を呼び込むとは、彼の人生になにがあったのか。
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