和平派の数正は家中で孤立していった

実のところ、昨今の研究では秀吉との和睦を推進したことで家臣団の中で発言力を失い孤立していった結果、出奔を余儀なくされるまで追い詰められたとみられている。

実際、出奔までの過程を時系列で見ていこう。

1584年11月11日、秀吉と織田信雄は会見し和睦が成立。この時の条件は信雄が秀吉に人質を差し出し、北伊勢五郡を除く伊勢と伊賀を引き渡し、家康からは家康の実子及び数正の実子を人質として差し出すというものであった。

家康もこれには異存がなかったようで、同月中には浜松に帰還、12月に入り、次男の於義伊(後の結城秀康)を秀吉の養子として差し出し、これに数正の子である勝千代と、本多重次の子である仙千代を同行させている。

この後、1586年10月、家康は大坂城で秀吉と会見し臣従することになるのだが、それまでの2年近くはかなり緊迫した状況が続いている。

1585年6月、秀吉は越中の佐々成政を攻めるにあたって家康はどう対応すべきかを信雄を通じて提示してきた。そこでは、家康と成政が通じているという報告が各所から寄せられているので、秀吉の越中在陣中には家康の重臣から人質を出してはどうかというのである。

それも、既に人質としている於義伊や勝千代を秀吉は人質とは思っていない。もしも人質が重なっているというならば、越中在陣の間は於義伊や勝千代を岡崎まで戻してもよいというのである。

『小牧長久手合戦図屏風』一隻
『小牧長久手合戦図屏風』一隻(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉は「臣従せよ」と言わず臣従を迫った

この秀吉の戦略は、家康に「臣従せよ」とは一言も言わないまま、臣従の中身だけを先に飲ませようとするものだったと思われる。重臣から人質を取れば家臣団との直接の回路ができるし、於義伊や勝千代を戻してもよいという言い方は、和睦が秀吉の厚意で成り立っていることを家康に思い知らせる。

さらに成政が逃げ込んだら秀吉の意向に任せよという条件は、徳川領内の処分権を秀吉に預けることにほかならない。形は相談、中身は臣従の要求である。

これに対して、家康はすぐに意向を明らかにしてはいない。その間、信濃国の地固めを優先していた家康は、7月に上田城の真田昌幸を攻めて敗退。以降、閏8月まで合戦は続いている。

そして10月28日になり、家康は浜松に家臣を集め、秀吉に人質を出すべきかを協議、国衆からは人質を拒絶する意見が相次ぎ、これには応じないと決した。

そして、11月13日になり岡崎にいた数正は妻子を伴い、さらに小笠原貞慶も質子と共に秀吉のもとに出奔したのである。藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020年)では「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見をもっていたのであろう」と推測している。