関白就任で秀吉との力の差は決定的に
こうした中で取次の数正は、秀吉が勢力を拡大したことで圧倒的な差が付いているということを目の当たりにしていたはずだ。数正は於義伊の供をして、雑賀・根来攻めの陣中見舞いに訪れているが、和泉・紀伊の領国は瞬く間に平定され、高野山も秀吉に下っている。
さらに、1585年6月に始まった四国攻めは8月に長宗我部元親が降伏。同月には成政も秀吉に服属と猛スピードで秀吉の勢力は拡大していた。新行紀一「豊臣秀吉との抗争と和睦」(柴裕之編著『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』戎光祥出版、2024年所収)では、こうした勢力拡大と共に秀吉の朝廷の官位の上昇を数正が和平を主張した理由であると指摘している。
とりわけ、秀吉が関白に就任したことで、天皇に仕える最高の臣下としての地位を獲得したことは大きい。これは秀吉が公家と武家両方の統率者になったのみならず、秀吉の命令に背くことは朝敵になる仕組みが成立したことを示している。
新行は「これを対秀吉交渉の担当者である数正が知らないわけがない。小牧・長久手合戦時の連携勢力の潰滅という現実と相まって、強固な和平論が形成されたとみられるのである」としている。
出奔の謎を動かした一通の新史料
そんな中、新史料によって出奔をめぐる状況は新展開を迎えている。
2023年4月に山形県鶴岡市にある致道博物館主催の「徳川家康と酒井忠次」展で初公開となった、庄内藩士の石川猪大夫家に伝来した1585年10月に信雄から家康に宛てた書状である。その内容は、以下のようなものだ(原文は漢文なので書き下しした)。
このなか在洛候いて、去る十二日に帰城せしめ候。早々、高木九助(広次)給い置かれ、満足の至りに候。よって石川伯耆(数正)差し上げられ、仕合相談、もっとももって珍重に候。関白殿(羽柴秀吉)も存分つぶさに承り届け、深重御進の儀に候条、その段においては御心易かるべく候。はた又、緒川領の儀ならびに与語久兵(衛)儀身上の事、様子は飯田半兵(衛)儀口上に申し含め候間、巨細に能わず候。なお追々申し入るべく候。恐々謹言。
十月十四日 信雄
十月十四日 信雄
筆者訳:このところ在京しておりましたが、去る12日に帰城いたしました。早速、高木九助(広次)をお遣わしくださり、満足の至りです。そのうえ、石川伯耆守(数正)を上洛させて、秀吉との取り計らいを相談なさるとのこと、まことにめでたいことです。関白殿(秀吉)もこちらの意向をつぶさに聞き届けられ、丁重にお取り計らいくださることですので、その点はご安心ください。また、緒川領のこと、ならびに与語久兵衛の身上のことは、事情を飯田半兵衛に口頭で申し含めてありますので、詳しくは申しません。なお追って申し入れます。以上、謹んで申し上げます。
(天正13年)10月14日 信雄
(天正13年)10月14日 信雄

