第一印象は「何だか矛盾した感じ」
1926(昭和元)年12月31日、敬愛する川端の長期湯治滞在を知った梶井基次郎が、肺結核の療養のために湯ヶ島にやって来た。東京帝国大学英文科の学生だった梶井は川端の2歳下で、同人誌『青空』に参加、小説「檸檬」を発表したが、この時点ではまだ何の評価も得ていなかった。
川端は1927(昭和2)年の元旦早々に訪ねて来た梶井を快く招き入れ、長逗留を歓迎しない落合楼への不満をこぼす梶井に、湯川屋という宿を紹介してやった。
梶井は連日のように川端を訪ねるようになり、『伊豆の踊子』の校正作業を手伝うほどの信頼を得た。そしてある日、川端から千代を紹介された。
「一見、無骨さうな若い男、と言ふ印象であったが、いかつい骨格の割りに顔色が悪かったり、無口のこはい人のやうでゐて、笑うと眼が糸のように細くなる感じが、とても柔和な印象であったり、何だか矛盾した感じを受けた」(「梶井さんの思ひ出」より)
これが千代の、梶井の第一印象だった。
肺結核でも自由奔放に生きる男
「湯ヶ島で出会った人々が、そのまま馬込に移ったやうに思われた時代があります。細君を貰った川の割りに顔色が悪かったり、無口のこはい人のやうでゐて、笑うと眼が糸のように細くなる感じが、とても柔和な印象であったり、何だか矛盾した感じを受け端は、私の家から一二町離れた臼田坂の坂の上に、居を構へました」(『私の文学的回想記』より)
湯ヶ島では馬込文士村の面々や、療養中の梶井を見舞う『青空』の同人、萩原に師事し、梶井の友人でもある三好達治らとの交流が続き、湯本館や落合楼、麓の茶屋や料理屋で飲み明かした。
梶井は散歩の途中で急流に飛び込んだり、不意に姿を消して天城山に登ったり、肺結核の第3期という病人にあるまじき行動をとって周囲を驚かせた。
「凡ゆる不養生を友だちが一緒になって手伝って、それで平気でゐたのも、みんなが若かった頃のむごさである」(「梶井さんの思ひ出」より)
梶井のことを図々しいと言う者もあり、純真だと言う者もあったが、冗談が好きで「みんなから墓次郎と言われるんですよ」などと言って千代たちを笑わせた。

