小説家としての梶井の姿勢に惹かれる

梶井が滞在した湯川屋は狩野川上流の猫越川ねっこがわ沿いにあり、千代が泊まる湯本館とは距離があった。それでも梶井は毎晩のように千代の元へ遊びにやって来た。

「梶井さんはしょっちゅう、湯本館にわたしを訪ねてきてくれました。晩ご飯が終わってから、二、三十分の道のりを歩いてくる。とても話が面白い人ですからね、夜中の十二時頃までもお喋りしているのよ」(『宇野千代振袖櫻ちょっと自伝』より)

千代は梶井が書いた作品が好きで、推敲すいこうに推敲を重ねる真摯な態度も好ましかった。散歩をすると草や鳥、木や花の話ばかりして、自分の気持ちは語らなかった。

千代はある日、梶井の部屋でウビガンの香水を見た。梶井とは一見不釣り合いなフランス製の高級香水が、千代の眼には「いかにも梶井が持っているものらしい」と思われた。

川端が誇った「湯ヶ島文学」の世界

1929(昭和4)年、千代が突然断髪すると、萩原朔太郎の妻・稲子と川端康成の妻・秀子が続いた。ところがその後、稲子は若い学生と駆け落ちしてしまう。

萩原の親友だった室生犀星は「千代が断髪をそそのかしたせいだ」と千代を避け続け、誤解が解けたのは数十年後だった。

川端康成写真
川端 康成(写真=John R Wallace, Univ. of Calif. Berkeley/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

同年9月、川端は馬込から越して行ったが、「大森の文士連中のまわりは何だか熱病に浮かされたよう」(川端康成『文学的自叙伝』より)だったと記している。

「湯ヶ島で撮った写真が一枚、いまでも残ってゐますが、宿のドテラを着て、それでも軍隊式に直立不動の姿勢で立ってゐる三好、少ししなを作って、帯を胸一ぱいに高くしめ、黒縮緬の羽織を着てゐる私、私に睡眠薬のベロナールを呉れた紳士と、宿の犬と女中と言ふ一行でしたが、何故か梶井の姿はありません」(『私の文学的回想記』より)

こうした文学者たちの交流は、後に川端が「湯ヶ島文学」と呼ぶ世界を育んだ。

「尾﨑士郎や宇野千代や故梶井基次郎らの伊豆湯ヶ島文学は私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪ねたのは、伊豆としても空前であろう」(川端康成「湯ヶ島温泉」より)