父は家庭では人を寄せ付けなかった
私の記憶の中の父は、いつでも、時計の間と呼ばれている、時計のかかっている部屋に坐っていた。時計の間からは庭の泉水が見える。泉水の中には大きな鯉や金魚が泳いでいる。その向こうの蜜柑畑には蜜柑だけではなく、仏手柑、まろめろ、その他珍種の柑橘類が植えてある。葡萄の棚も見える。時計の間からは、家の内外が凡て見える。父はそこで、唇を固く結んだ一種独特の表情をして坐っていた。言って見ればそれは、人を近づけぬ表情であった。そんな父が、その飼っている馬や金魚や、その他珍種の柑橘類などに対しては、朝夕、手を尽くして世話をしている有り様は不思議である。人間を拒否する度合いに准じて、動植物には手を尽くしているように見えたからである。
子どもの遊びには参加できなかった
私は変則な子供時代を送った。学校から家へ戻ってからも、一ぺんもそとへは出なかった。父がそう命令したのかどうか、とにかく表へは出なかった。こんな小さな町でも昔は、でこ廻しや猿芝居が流して来ることがあった。うちのすぐ前は古手屋と言われていた古道具屋で、そこで道が斜めになっていて、ちょっとした広場がある。きまったように流しはそこで荷を下す。「東西、東西」と言って拍子木を叩く。たちまち子供たちが寄って来て、騒ぐ声がする。しかし私は一ぺんも、それらの仲間になったことはなかった。「東西、東西」と呼ぶ声は、私のためではなかったからである。
その頃のことを考えても、それでは私があんまり可哀そうだ、などと私は考えたことはない。父はああ言う躾け方が、子供たちにとって最適だ、などとさえ思ったのではなかった。いや、躾けよう、などとさえ思ったのではなかった。ただその性格から、いつでもそう言う命令しか下さなかったようなのであった。
ギャンブルで警察に捕まった父
或るときのことである。父は家を出て行ってから二日も帰って来ないことがあった。警察から知らせがあって、父はそこに留められているのだと言う。私は母に連れられて、その父のために弁当を持って行った。警察は臥龍橋の向こうの袂にあった。川西から行くと、行く手にその白い建物が、いかめしく見えていた。
あとで聞くと父は、どこかで博奕(博打)をしていて、挙げられたのだと言う。博奕とはどう言うことをするのか、私は知らなかった。暗い一室の中で、あの、うちにいるとき、時計の間で坐っているのと全く同じ表情をして坐っている父を見て、法律で禁じられたことをして挙げられたのだ、などとどうして思えよう。

