“監督らしさ”にとらわれない
インタビュー時間は半ばを過ぎていた。このタイミングで、同席していた広報担当者が教えてくれたことがあった。
鬼木は試合についてプレス向けのコメントを発表するが、それは選手に向けたメッセージであると同時に広く世の人々が目にする公式のものであるから、広報としては語尾を「です」「ます」と丁寧語に変換する。どのプロスポーツでも同じような調整が行われているだろう。だが、鬼木は場合によっては、「その必要はないから」と広報に伝えることがあるという。私の知る限りでは、そういう監督は鬼木が初めてである。
「もちろん丁寧な言葉で伝えたいときはそうしてもらいますけど、僕の中では多少(文字面が)乱暴に見えても、そのほうが(選手に)伝わるのであれば、これはこれでいいよと。何でも綺麗に収まればいいのではなくて、この言葉がどうやって相手に届くかが大事ですから。
この仕事をやる前に、ストレスの強い仕事だろうなと勝手に想像していました。だから自分を着飾ってやっていると多分、持たないだろうなと思ったんです。だから、つねに自分らしくいられる環境を自分自身がつくるというか、それは言葉の部分でもそうです」
何が最も彼らに伝わるのかを考えたとき、ありのままの自分の、鬼木達の言葉が最も有効であると判断したなら、迷わず世間向けの衣装を脱ぎ捨てる。私はそれを聞いて、この人の本質的な一端に触れた気がした。
「監督らしさは人それぞれでいいと思ってますし、そこに対してこだわりはないかもしれません。不思議なのはストレスの強い仕事だろうなと想像していたんですけど、正直、ストレスはないんです。自分でもびっくりしてます。
もちろん勝てないときに苛々することはありますけど、スポーツって結果が必ず出るとは限らないじゃないですか。だから自分は一番結果を求めてやっていますけど、出なくても、それ以外のところの喜びはやっぱりあるんです。
今まで芽が出てなかった選手がめちゃくちゃ頑張っているなとか、試合を見ている人はなかなか気付かないかもしれないけど、今日はミスしたけどチャレンジしたとか、小さなことかもしれないですけど、指導者にとっては意外と大事というか、エネルギーになっていくんです。
もちろん結果の世界ですけど、そういうところでストレスが消されているのかなと勝手に考えています」
チームに対するマネジメントはしないといった鬼木だが、それは自分自身に対しても同じなのかもしれない。
既存の監督らしさにとらわれない人である。
サッカーの神様から学んだ“本物の力”
書き手として、ようやく鬼木の輪郭をつかめたような気がした。私がひとり妙に納得していると、鬼木が「ただ、誤解してもらいたくないのは」と言った。本質はここからだという響きがそこにはあった。
「“勝つ”と“楽しむ”は全然別ではないんです。だって楽しむためには誰よりも上手くならなきゃいけないですし、誰よりも強くならなきゃいけない。誰よりもサッカーに対する熱意を持ってなきゃいけないですから。上手くない、走れない、戦えないという人が、サッカーを楽しんでと言われても楽しめるわけがないので。
楽しむに至るまでには突き詰めていく過程があって、最後の試合はもうお披露目みたいなものなんです。だから僕のトレーニングはきついですし、長いですよ」
私にはその瞬間、鬼木の目の奥が少し光ったように見えた――。
鬼木は1993年のJリーグ元年に鹿島アントラーズに入団した。チームには元ブラジル代表のジーコがいた。千葉の市立船橋高校を卒業したばかりの青年ミッドフィールダーはサッカー王国のスーパースターと間近に接しながら、本物の力とは何かを目の当たりにしたという。
「足先だけのプレー、見た目が華麗なだけのプレーでは勝っていけない。本物の力がないと生き残っていけないと教えてもらいました。
当時、ジーコさんは現役晩年ぐらいの頃だったので、派手なプレーをするわけでも、すごく動くわけでもないんですけど、本当にミスがないんです。派手なトリックなんかしなくてもシンプルなパス1本で相手を2、3人抜いちゃってる。技術ってこういうことなのかと思いました。
普通のことをもっとも普通にやってしまう。そういう人がやっぱり本物なんだと思いました。
中でも一番、印象的だったのはパッションの高さです。そういうものを誰よりも持っている人だったので」
