秀吉は着々と敵の城を攻略する

翌5日付で秀吉は秀長に宛てて「こちらは竹鼻、祖父江近辺を放火し、加賀野井城も攻囲し、外構えを破って堀際まで追い詰めているので落城は時間の問題である。そちら(秀長)は石垣の普請が出来次第、人数二、三千人を残してこちらへ来るように。たいしたことがなくてもこまめに連絡せよ。加賀野井城を家康が救援に来ても対処できるようにしているので心配は無用である」と伝えている。

前述したように、秀吉は小牧城を攻囲しても家康が出撃してこないため、尾張西部へ侵攻し、家康をおびき出す作戦だったが、誘いに乗らなかったため、孤立無援となった加賀野井城を攻めて7日に落城させた。

豊臣秀吉の肖像画、1598年ごろ(高台寺所蔵)
豊臣秀吉の肖像画、1598年ごろ(高台寺所蔵)(狩野光信画/Public domain/Wikimedia Commons

秀吉は味方の武将に「強気発言」

こののち、秀吉は竹鼻城を水攻めし、5月29日付の田丸直息たまるただやす宛書状で「堤が完成し、水攻めのための水が予想以上に入り、落城は間近である」とし、秀長も一両日中に来援すると伝えている。秀長は6月8日、石川貞通に対し、貞通の在番をねぎらい、小牧・長久手の戦いも一段落し、秀吉の凱旋道中の宿泊先の普請を命じるため土山まで来たとし、竹鼻城も6月6日に開城したことなどを伝えている(『村松藹氏所蔵文書』)。6月10日付の同人宛返書でも普請を急いでいる様子が窺える(『石川文書』)。

秀吉の6月17日付の木曽義昌への返書には、義昌からの書状を大垣で披見したとし、秀吉軍の動向について、「竹鼻城を攻略し、吉里・駒野城にも軍勢を派遣し、秀長を伊勢方面へ派遣し、蟹江かにえ・前田・戸田城を調略で味方にし、滝川一益を入れ置き、秀吉自身も出陣する予定である。小牧には丹羽長秀らの軍勢を派遣し、諸方から押し寄せ、家康が退却しないような戦術を使うので、討ち果たすのは容易たやすい」と伝えている。外交文書なので、いつもの秀吉の強気発言である。