信雄は秀吉に攻められ、降伏

秀吉は戦略を切り替え、本陣としていた楽田(愛知県犬山市)を引き揚げ、尾張西部に目を向け、信雄方の加賀野井城(岐阜県羽島市)を攻撃することで信雄・家康の連合軍を誘き出して決戦を挑もうとした。しかし、連合軍は援軍に赴かず、孤立無援となった加賀野井城は5月7日に落城。続いて5月10日から竹鼻城(羽島市)を水攻めし、6月6日には攻略した。最終的には信雄の本城となっていた長島城に圧力をかけることで信雄を追い詰め、講和に至る。信雄は人質を差し出すなど実質的に降伏した。

小牧・長久手の戦いにおける秀吉の陣立書じんだてしょ(合戦における部隊の配置や編制を記した文書)が複数伝わっており、秀長の名前(美濃守)も見え、7000ほどを率いていたようである。同合戦における秀長の動きを見ていこう。

7000の兵を率いた秀長の動き

3月16日付の秀吉の判物うつしなどによると、秀長は伊勢方面軍の先陣の大将として、津川雄光の居城であった松島城攻略に出陣し、羽柴秀勝、織田信包、筒井順慶、九鬼嘉隆ら2万余の軍勢を率いていた。秀吉は3月23日付で嘉隆に対し、付城(敵城攻撃の拠点の砦)を構築してつなぎの城も堅固にするように命令し、詳しくは秀長に伝えているので相談するように指示している(『旧鳥羽小学校所蔵謄写本』)。

松島城は雄光が粛清されたためその旧臣が籠城していた(『南伊勢にての巻』)が、信雄がすぐさま軍勢を派遣して戦闘となったものの和談の末に接収し、滝川雄利が守将となっていた。秀長は3月23日付の東福寺への礼状の中で「近々取詰とりつめ、異儀なく申付もうしつけ候」(『泰巖歴史美術館名品図録』)と攻略に自信を覗かせており、4月3日には激戦を繰り広げ、8日には開城に追い込んだ。藤堂高虎関連の史料には、高虎が先鋒として一番乗りをした武功が記されている。

織田信雄が占拠していた伊勢の松ヶ島城跡(三重県松阪市)
織田信雄が占拠していた伊勢の松ヶ島城跡(三重県松阪市)、2015年(写真=Ajax/CC-BY-SA 4.0/Wikimedia Commons

家康に負けたことは隠せなかった

攻略後、秀長は秀吉軍に加勢するため尾張に軍勢を進めた。秀吉も4月11日付の木曽義昌宛書状で、長久手の戦いの敗戦に触れたあと、伊勢では松島城を攻略し、秀長(美濃守)をはじめ順慶らの軍が着陣したと告げ、心配無用と伝えている。さすがの秀吉も長久手での敗戦(「失勝利」)は隠さなかった。尾張に着陣した秀長は、5月4日には尾張の継鹿尾つがお(愛知県犬山市)に禁制を下している。

豊臣秀長像(春岳院所蔵)
秀長は松ヶ島城を攻め落とした。豊臣秀長像(春岳院所蔵)(写真不詳/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons