※本稿は、和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)の一部を再編集したものです。
信長の次男・信雄が家康と組んだ
秀吉は強敵柴田勝家を葬ったことで織田家中での地位を盤石なものとしたが、最大の難題は主家織田信雄(信長の次男)を凌駕することであった。主筋の信雄を敵にすることは謀反であり、信雄を隠れ蓑として勝家を葬った時とは格段に違う覚悟も必要であった。そのためには信長旧臣を確実に取り込む必要があった。
その最大の旧臣が清須会議で宿老に連なった丹羽長秀と池田恒興である。打倒勝家には協力した両者だが、主家に対する謀反に協力するかどうかは難しい読みが必要でもあった。織田家に対する忠義を上回る利得(領地など)をちらつかせつつ、謀反に踏み切る「正義」をかざす必要もあった。
凡庸とされる信雄もさすがに秀吉の野望(「羽柴天下の儀、恣の働」)に危機感を募らせ、秀吉に内通しているとして天正12年(1584)3月6日、伊勢松島の津川雄光、尾張苅安賀の浅井新八、尾張星崎の岡田秀重の三家老を誅殺した。秀吉への絶縁状ともいえる処断であり、当然のことながら事前に徳川家康の協力を取り付けた上での決起でもあった(『古文書鑑』)。
家康の動きは素早い。3月13日には清須城で信雄と対面し、信長時代から続いていた「清須同盟」の再締結ともいえる動きであった。津川雄光と岡田秀重は秀吉から信雄に付けられた家老であったことから、秀吉は激怒して3月10日には信雄討伐に出陣した。
家康軍が池田恒興を討ち取る大勝
秀吉と信雄のいわゆる「小牧・長久手の戦い」というのは、織田家督に推戴された信長の次男信雄が秀吉の台頭に危機感を抱き、信長時代からの同盟相手(「清須同盟」)であった徳川家康を恃んで反秀吉の旗幟を鮮明にし、対する秀吉も信長旧臣の囲い込みを進めつつ戦機の熟すのを待っており、激突すべくして激突した戦いでもあった。
秀吉対信雄の天下分け目の決戦であるが、対立軸としては、信長旧臣衆を取り込んだ秀吉軍と、家康を味方に付けた信雄軍の対決であった。畿内、東海を中心に、中国、四国、北陸、関東など広範囲に自陣営への取り込みを展開しつつ、戦闘そのものは尾張、伊勢を中心に繰り広げられた。犬山城の攻防戦、羽黒合戦など一進一退を繰り広げ、4月9日には家康軍が池田恒興、森長可を討ち取る大勝を挙げた。家康の長久手の勝利を過小評価する向きもあるが、局地戦とはいえ、信長の乳兄弟で宿老の池田恒興とその嫡男元助、恒興の娘婿森長可の討死は秀吉軍にとっては大きな衝撃であった。
信雄は秀吉に攻められ、降伏
秀吉は戦略を切り替え、本陣としていた楽田(愛知県犬山市)を引き揚げ、尾張西部に目を向け、信雄方の加賀野井城(岐阜県羽島市)を攻撃することで信雄・家康の連合軍を誘き出して決戦を挑もうとした。しかし、連合軍は援軍に赴かず、孤立無援となった加賀野井城は5月7日に落城。続いて5月10日から竹鼻城(羽島市)を水攻めし、6月6日には攻略した。最終的には信雄の本城となっていた長島城に圧力をかけることで信雄を追い詰め、講和に至る。信雄は人質を差し出すなど実質的に降伏した。
小牧・長久手の戦いにおける秀吉の陣立書(合戦における部隊の配置や編制を記した文書)が複数伝わっており、秀長の名前(美濃守)も見え、7000ほどを率いていたようである。同合戦における秀長の動きを見ていこう。
7000の兵を率いた秀長の動き
3月16日付の秀吉の判物写などによると、秀長は伊勢方面軍の先陣の大将として、津川雄光の居城であった松島城攻略に出陣し、羽柴秀勝、織田信包、筒井順慶、九鬼嘉隆ら2万余の軍勢を率いていた。秀吉は3月23日付で嘉隆に対し、付城(敵城攻撃の拠点の砦)を構築してつなぎの城も堅固にするように命令し、詳しくは秀長に伝えているので相談するように指示している(『旧鳥羽小学校所蔵謄写本』)。
松島城は雄光が粛清されたためその旧臣が籠城していた(『南伊勢にての巻』)が、信雄がすぐさま軍勢を派遣して戦闘となったものの和談の末に接収し、滝川雄利が守将となっていた。秀長は3月23日付の東福寺への礼状の中で「近々取詰とりつめ、異儀なく申付候」(『泰巖歴史美術館名品図録』)と攻略に自信を覗かせており、4月3日には激戦を繰り広げ、8日には開城に追い込んだ。藤堂高虎関連の史料には、高虎が先鋒として一番乗りをした武功が記されている。
家康に負けたことは隠せなかった
攻略後、秀長は秀吉軍に加勢するため尾張に軍勢を進めた。秀吉も4月11日付の木曽義昌宛書状で、長久手の戦いの敗戦に触れたあと、伊勢では松島城を攻略し、秀長(美濃守)をはじめ順慶らの軍が着陣したと告げ、心配無用と伝えている。さすがの秀吉も長久手での敗戦(「失勝利」)は隠さなかった。尾張に着陣した秀長は、5月4日には尾張の継鹿尾(愛知県犬山市)に禁制を下している。
秀吉は着々と敵の城を攻略する
翌5日付で秀吉は秀長に宛てて「こちらは竹鼻、祖父江近辺を放火し、加賀野井城も攻囲し、外構えを破って堀際まで追い詰めているので落城は時間の問題である。そちら(秀長)は石垣の普請が出来次第、人数二、三千人を残してこちらへ来るように。たいしたことがなくてもこまめに連絡せよ。加賀野井城を家康が救援に来ても対処できるようにしているので心配は無用である」と伝えている。
前述したように、秀吉は小牧城を攻囲しても家康が出撃してこないため、尾張西部へ侵攻し、家康をおびき出す作戦だったが、誘いに乗らなかったため、孤立無援となった加賀野井城を攻めて7日に落城させた。
秀吉は味方の武将に「強気発言」
こののち、秀吉は竹鼻城を水攻めし、5月29日付の田丸直息宛書状で「堤が完成し、水攻めのための水が予想以上に入り、落城は間近である」とし、秀長も一両日中に来援すると伝えている。秀長は6月8日、石川貞通に対し、貞通の在番をねぎらい、小牧・長久手の戦いも一段落し、秀吉の凱旋道中の宿泊先の普請を命じるため土山まで来たとし、竹鼻城も6月6日に開城したことなどを伝えている(『村松藹氏所蔵文書』)。6月10日付の同人宛返書でも普請を急いでいる様子が窺える(『石川文書』)。
秀吉の6月17日付の木曽義昌への返書には、義昌からの書状を大垣で披見したとし、秀吉軍の動向について、「竹鼻城を攻略し、吉里・駒野城にも軍勢を派遣し、秀長を伊勢方面へ派遣し、蟹江・前田・戸田城を調略で味方にし、滝川一益を入れ置き、秀吉自身も出陣する予定である。小牧には丹羽長秀らの軍勢を派遣し、諸方から押し寄せ、家康が退却しないような戦術を使うので、討ち果たすのは容易い」と伝えている。外交文書なので、いつもの秀吉の強気発言である。
小牧・長久手の戦い「家康が優位」の通説見直し?…秀吉から家臣への書状に「家康から和議申し込み」 : 読売新聞 https://t.co/gkxwlol0PF
— 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) August 7, 2026
新発見の秀長に宛てた秀吉書状
最近、秀長宛の秀吉書状が発見された。内容から天正12年(1584)に比定されている6月18日付の貴重な文書である(『田中本家博物館所蔵文書』)。内容は「昨日17日付の秀長からの書状と一益からの書状を詳しく披見した。一益からの書状は秀長からの書状と同じような内容であった。両通から得られた情勢を踏まえ、こちらからも軍勢を派遣し、黒田、一宮まで放火させたので、そちらからも煙が見えただろう。こちらは軍勢の必要がないため20日には移陣し、21日には日野に着陣する予定なので、秀長もそのように心得るように。秀長は神戸城(現在の三重県鈴鹿市)へ移ったのか。船の用意は油断なく指示するように、追々連絡する。なお、城の留守居はしっかり指示し、油断しないように」。
秀長は秀吉とは別行動をとっているが、緊密に連絡しており、主体性を持って軍事行動していたことが分かる。6月20日付で堀政次が秀長の家臣に宛てた書状によると、「伊勢方面の戦局は取り立てての変化はないので安心してほしい。秀長様へもお見舞いに参上しようと思っていたが、諸事に紛れて参れず、不本意であった」などと伝えている。戦局が膠着状態となったこともあり、秀吉はいったん大坂城に帰陣した。
