信長健在なら秀吉の妻にはならなかった

しかし、世の移り変わりが2人を結び付けることになります。『渓心院文』(お市の方の次女・初に仕えた女房による覚書)によると、アプローチしてきたのは秀吉でした。茶々に使者を遣わした秀吉は「御主と一緒になりたい」と告げるのです。秀吉の求婚を茶々は無条件に受け入れたわけではありません。「妹たちを御指図にて嫁がせていただけたならば」と妹2人(初と江)をしかるべき家に嫁がせてくれるのならば、秀吉と一緒になると約したのです。

伝・淀君像
伝・淀君像(東京大学史料編纂所所蔵の模写、原本は京都府養源院所蔵)の一部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この返答を見るに茶々は「知恵」がある賢明な女性だったことが分かります。茶々の返事を聞いた秀吉は喜びました。茶々が提示した条件を受け入れて、秀吉は初を京極高次(母は浅井久政の娘)に、江を羽柴秀勝(秀吉の甥)に嫁がせます。茶々の秀吉への返答の中に「このような親様なしになってしまいましたので、お頼みしたいと思いますが」との文言がありますが、両親を亡くした茶々の心細さが伝わってきます。

秀吉を恨んでいたワケではない

今回の「豊臣兄弟!」もそうですが、ドラマなどではよく、茶々は父母の仇である秀吉を恨んでいたと描かれます。

しかし、九州大学の福田千鶴教授も指摘するように「そんな了見の狭い考えでは戦国の世を生き延びることはできない」でしょう。たしかに北ノ庄城は秀吉により攻め落とされ、それに伴い母・お市の方は死んだが、本当ならば生き延びることも十分可能でした。かつて落城する小谷城から出されて生き延びたことはお市の方にとって、屈辱でした。城主(浅井長政)の妻としての覚悟を示せなかったからです。そのような「過ち」を二度と繰り返したくないと思い、お市の方は自ら死を選んだのでした。

お市の方は秀吉に書状を書き、娘の将来を託していました。茶々もその思いをよく分かっていたでしょうし、親を亡くして心細い時に秀吉からの求婚の申し出があり、正直ホッとしたのではないでしょうか。茶々にもさまざまな思いがあったでしょうが「秀吉を頼って生きるしかない」と決断したのです。

【図表1】茶々(淀君)の生涯