信長の姪として保護されるが…

その後、母と3人の娘は信長の叔父・織田信次(尾張国守山城主)の保護下にあったとされます。信次は天正2年(1574)の長島一向一揆攻めの際に戦死してしまい、彼女たちは信長の居城・美濃国の岐阜城に移りました。そして、彼女らの運命をまたしても大きく変える出来事が起こります。それは天正10年(1582)6月2日の本能寺の変であり、信長が重臣・明智光秀により討たれるのです。

ほどなく光秀は秀吉により打倒されました。そして信長亡き後の織田家の在り方などを取り決めた「清須会議」(1582年6月27日)によりお市の方は織田家宿老の柴田勝家(居城は越前国北ノ庄城)に再嫁することになるのです。母と共に茶々ら娘たちも北国に移ります。

福井市・柴田神社の柴田勝家像
写真=相良陽/photolibrary
福井市・柴田神社の柴田勝家像

母・お市の方が柴田勝家と再婚

ところがそれから1年も経たぬ間に、勝家は対立を深めていた秀吉との戦い(1583年4月の賤ヶ岳の戦い)に敗れ、北ノ庄城に落ち延びました。北ノ庄城を攻囲する秀吉軍。勝家は妻のお市に秀吉の陣に落ちるよう促しますが、お市は「たとい女人たりといえども、こころは男子に劣るべからず」と返答し、勝家と運命を共にすること、つまり死ぬことを選んだのでした(秀吉の御伽衆・大村由己が著した秀吉の一代記『天正記』)。

茶々・初・江の三姉妹は城から脱出することになります。三姉妹が城を落ちたことを聞いた秀吉はすぐに彼女らを近江国の安土城に迎え入れたということです(『玉興記』)。こうして茶々は10代の頃に実母をも亡くしてしまったのです。どんなに心細かったことでしょう。

三姉妹は秀吉に保護されることになりますが、それまでに秀吉と茶々に面識があったかは分かりません。茶々の生年を永禄12年(1569)とするならば、北ノ庄城時(1583年)にはまだ14歳。一方、秀吉は天文6年(1537)の生まれですので、その時、46歳。2人には32もの歳の差がありました。それまでに2人がお互いを異性として意識することはなかったでしょう。年齢差のことだけでなく、茶々は信長の姪でした。信長が死ななかったならば秀吉と茶々が結ばれることはおそらくなかったと考えられます。

「橙花見図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)に描かれた老年の秀吉、安土桃山時代
「橙花見図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)に描かれた老年の秀吉、安土桃山時代(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons