大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で井上和が演じるお市の方(宮崎あおい)の長女・茶々。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「ドラマでは秀吉を恨み、見下していたと描かれることが多いが、実際には秀吉の書状に夫婦としての細やかなやり取りが残っている」という――。

「淀君」と呼ばれているが、実際は…

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で豊臣秀吉(池松壮亮)の側室・茶々(淀殿・淀君)を演じるのは井上和さん。柴田勝家(山口馬木也)と再婚した母のお市(宮崎あおい)について北之庄城(現在の福井県福井市)に行き、秀吉軍との戦いに巻き込まれていく様が描かれています。

福井市・柴田神社のお市の方と三姉妹像(後列中央が茶々像)
写真=市川蒼/photolibrary
福井市・柴田神社のお市の方と三姉妹像(後列中央が茶々像)

戦国乱世において数奇な生涯を送ったこの1人の女性は前述のように「淀殿・淀君」などと巷間呼ばれることが多いですが、実は彼女が生きた時代の史料においてそのように呼称しているものはありません。

では、どのように呼ばれていたのか。「御上様」「御内」「北御方」といった妻の尊称で呼ばれることもありましたし、彼女が鶴松や秀頼といった子を産んでからは「大坂様」「西丸様」などの御殿名で呼称されるようになります。ちなみに夫・秀吉からは「おちゃちゃ」(お茶々)、「よどの物」などと書状で呼ばれていました。よってここでは彼女のことを茶々と記すことにします。

父親が死んだときは4歳か6歳

冒頭で茶々のことを数奇な生涯を送った女性と形容しましたが、それは以下の理由によります。まず、彼女の父は北近江の武将・浅井長政でした。この長政の妻はご存知のように織田信長の妹・お市の方。当初は同盟関係にあった信長と長政ですが、元亀元年(1570)、長政が突如、信長を裏切ったことから両者は衝突。信長を苦しめた長政ですが、次第に劣勢となり、天正元年(1573)、ついに自害・滅亡に追い込まれるのでした。

落城に際しては、長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市)から母お市の方と茶々・初・江の三姉妹は逃げ延びることになります。茶々の生年には諸説あり、永禄10年(1567)とするもの、永禄12年(1569)とするものなどがあります。どちらにしても6歳や4歳という年少期に実父を亡くしたことになります。

信長の姪として保護されるが…

その後、母と3人の娘は信長の叔父・織田信次(尾張国守山城主)の保護下にあったとされます。信次は天正2年(1574)の長島一向一揆攻めの際に戦死してしまい、彼女たちは信長の居城・美濃国の岐阜城に移りました。そして、彼女らの運命をまたしても大きく変える出来事が起こります。それは天正10年(1582)6月2日の本能寺の変であり、信長が重臣・明智光秀により討たれるのです。

ほどなく光秀は秀吉により打倒されました。そして信長亡き後の織田家の在り方などを取り決めた「清須会議」(1582年6月27日)によりお市の方は織田家宿老の柴田勝家(居城は越前国北ノ庄城)に再嫁することになるのです。母と共に茶々ら娘たちも北国に移ります。

福井市・柴田神社の柴田勝家像
写真=相良陽/photolibrary
福井市・柴田神社の柴田勝家像

母・お市の方が柴田勝家と再婚

ところがそれから1年も経たぬ間に、勝家は対立を深めていた秀吉との戦い(1583年4月の賤ヶ岳の戦い)に敗れ、北ノ庄城に落ち延びました。北ノ庄城を攻囲する秀吉軍。勝家は妻のお市に秀吉の陣に落ちるよう促しますが、お市は「たとい女人たりといえども、こころは男子に劣るべからず」と返答し、勝家と運命を共にすること、つまり死ぬことを選んだのでした(秀吉の御伽衆・大村由己が著した秀吉の一代記『天正記』)。

茶々・初・江の三姉妹は城から脱出することになります。三姉妹が城を落ちたことを聞いた秀吉はすぐに彼女らを近江国の安土城に迎え入れたということです(『玉興記』)。こうして茶々は10代の頃に実母をも亡くしてしまったのです。どんなに心細かったことでしょう。

三姉妹は秀吉に保護されることになりますが、それまでに秀吉と茶々に面識があったかは分かりません。茶々の生年を永禄12年(1569)とするならば、北ノ庄城時(1583年)にはまだ14歳。一方、秀吉は天文6年(1537)の生まれですので、その時、46歳。2人には32もの歳の差がありました。それまでに2人がお互いを異性として意識することはなかったでしょう。年齢差のことだけでなく、茶々は信長の姪でした。信長が死ななかったならば秀吉と茶々が結ばれることはおそらくなかったと考えられます。

「橙花見図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)に描かれた老年の秀吉、安土桃山時代
「橙花見図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)に描かれた老年の秀吉、安土桃山時代(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信長健在なら秀吉の妻にはならなかった

しかし、世の移り変わりが2人を結び付けることになります。『渓心院文』(お市の方の次女・初に仕えた女房による覚書)によると、アプローチしてきたのは秀吉でした。茶々に使者を遣わした秀吉は「御主と一緒になりたい」と告げるのです。秀吉の求婚を茶々は無条件に受け入れたわけではありません。「妹たちを御指図にて嫁がせていただけたならば」と妹2人(初と江)をしかるべき家に嫁がせてくれるのならば、秀吉と一緒になると約したのです。

伝・淀君像
伝・淀君像(東京大学史料編纂所所蔵の模写、原本は京都府養源院所蔵)の一部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この返答を見るに茶々は「知恵」がある賢明な女性だったことが分かります。茶々の返事を聞いた秀吉は喜びました。茶々が提示した条件を受け入れて、秀吉は初を京極高次(母は浅井久政の娘)に、江を羽柴秀勝(秀吉の甥)に嫁がせます。茶々の秀吉への返答の中に「このような親様なしになってしまいましたので、お頼みしたいと思いますが」との文言がありますが、両親を亡くした茶々の心細さが伝わってきます。

秀吉を恨んでいたワケではない

今回の「豊臣兄弟!」もそうですが、ドラマなどではよく、茶々は父母の仇である秀吉を恨んでいたと描かれます。

しかし、九州大学の福田千鶴教授も指摘するように「そんな了見の狭い考えでは戦国の世を生き延びることはできない」でしょう。たしかに北ノ庄城は秀吉により攻め落とされ、それに伴い母・お市の方は死んだが、本当ならば生き延びることも十分可能でした。かつて落城する小谷城から出されて生き延びたことはお市の方にとって、屈辱でした。城主(浅井長政)の妻としての覚悟を示せなかったからです。そのような「過ち」を二度と繰り返したくないと思い、お市の方は自ら死を選んだのでした。

お市の方は秀吉に書状を書き、娘の将来を託していました。茶々もその思いをよく分かっていたでしょうし、親を亡くして心細い時に秀吉からの求婚の申し出があり、正直ホッとしたのではないでしょうか。茶々にもさまざまな思いがあったでしょうが「秀吉を頼って生きるしかない」と決断したのです。

【図表1】茶々(淀君)の生涯

秀吉の書状に残る茶々への思い

ドラマなどでは秀吉を見下し、高慢に描かれがちな茶々ですが、秀吉の書状からはそれとは異なる姿が見えてきます。天正18年(1590)4月、秀吉は後北条氏攻めのため小田原におりましたが、その時、正室・寧(北政所)の侍女「五さ」に宛てて書状(4月13日付)を書いています(五さ宛ではあるが、実際には寧への書状と言って良い)。

秀吉が上洛中の天正14年(1586)、妻の杉原氏(北政所お寧)に宛てて出した手紙
秀吉が上洛中の天正14年(1586)、妻の杉原氏(北政所お寧)に宛てて出した手紙(出典=ColBase

ちなみに天正17年(1589)、茶々は秀吉との間に鶴松という息子をもうけていました。秀吉は書状の中で「若公」(鶴松)を恋しく思ってはいるが(北条氏を討伐し)、天下を穏やかにしたいと思っているので「恋しき事も思ひきり」(恋しい気持ちを忍ぶ)と書いています。その上で「よどの物」(淀の者=茶々)を小田原に呼びたいと告げるのでした。茶々を小田原の陣中に呼びたいので、その事を寧より命じて用意させよと言うのです。

「茶々は細やかに仕えてくれる」

秀吉は同書状の中で、茶々は寧に続いて私(秀吉)の「きにあい候ようにこまかにつかれ候」(気に合うように細やかに仕えてくれる)と述べています。よって心安く思い、茶々を呼び寄せるというのです。この秀吉の書状からは茶々が献身的に夫・秀吉に仕えていたことが分かります。ドラマで描かれてきたように秀吉を見下したり、偉そうにしている茶々の姿を見出すことはできません。また秀吉も茶々の態度を気に入り、寵愛していたことが窺えます。

秀吉の要望に応え、茶々は小田原の秀吉のもとに向かいます。鶴松は残念ながら天正19年(1591)に夭折しますが、茶々は文禄2年(1593)に拾(後の秀頼)を産むことになります。同年、秀吉は茶々に書状を出していますが、そこには「すこしも、もの気にかけ候まじく候」(少しも物事を気にかけてはならない)と産後の茶々を気にかける文言が見えます。

秀頼出産時に手紙で念押ししたこと

また、この文言の前には「ひろいに乳をよくよくのませ候て、ひとね候べく候。ちち足り候やう、飯をもまいり候べく候」(拾に母乳をよく飲ませ、独り寝させよ。乳がよく足りるように飯を食べなければならない」との一文もあります。乳母の乳ではなく、茶々の母乳で拾を育てていたのです。

豊臣秀頼像(東京藝術大学所蔵)、江戸時代
豊臣秀頼像(東京藝術大学所蔵)、江戸時代[写真=(伝)花野光明/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

別の茶々宛の書状でも秀吉は「せつかく精に入れ、ちちをのませ候へ」(一生懸命に乳を飲ませよ)と拾に多くの母乳を飲ませることを勧めています。乳が細くなると拾の生育にも差し障りがあるからです(仮に茶々の乳の出が悪くなった場合は乳母の乳を飲ませよということを秀吉は示唆していると思われます)。

このように秀吉は茶々や拾のことを大いに気にかけていました。茶々は拾を母乳で育て、秀吉と共に子育てをしていたのです。秀吉は幼い拾に「口を吸い申すべく候」(キスをする)と言うほど、溺愛していました。秀吉の書状を見ていくと、秀吉と茶々の夫婦として、また幼子の父母としての仲睦まじい姿が浮かんでくるのでした。

参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川書店、1965年)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)