秀吉「男なら後継者にしたのに…」

天下統一を果たした秀吉は朝鮮や明国を征服せんとしますが、明国征服後は「日本の関白は秀長(秀吉の弟)の養子・秀保か秀家」にしようと構想していました。また秀吉は秀家が病になると医師を遣わし、秀家の容態を案じる書状を出しています。この事から秀家が秀吉に大いにかわいがられていたことが分かるでしょう。

豪姫もまた秀吉にかわいがられます。秀吉が豪姫のことについて触れた有名な書状は文禄2年(1593)のものでしょう(日付は欠いていますが、2月か3月の書状と思われます)。当時は文禄の役(第一次朝鮮出兵)の頃で秀吉は肥前国名護屋に在陣していました。そこに妻の寧から「豪姫が南の御方と名を変えた」との書状が届くのです。秀吉は「おね」(寧)に返事を書きますが、そこに豪姫のことが記されているのです。