秀吉が溺愛した「前田利家の娘」
豊臣秀吉から「最も愛された秘蔵の娘」と評される1人の女性がおりました。その姫は豪姫と言います。「秘蔵の娘」と言っても豪姫は秀吉の本当の娘ではありません。豪姫の父は大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)にも登場する武将・前田利家(加賀藩主・前田氏の祖)です。そしてその母は利家の正室・まつ(芳春院)。豪姫はこの2人の間に天正2年(1574)に生まれました。利家の四女でした。
利家の娘として生まれた豪姫は、秀吉の養女となります。豪姫が秀吉の養女になったのはいつか。これについては諸説あります。生まれてすぐに秀吉・寧夫妻の養女となったとの説。一方、福田千鶴(九州大学教授)は天正11年(1583)説を採っています。同年、秀吉と利家は和議を結ぶことになり、その際、秀吉は「御息女(利家の娘・豪姫)を養女とし、浮田八郎(宇喜多秀家)を婿にせん」と約束したとあります(前田家家臣「村井重頼覚書」)。また福田氏は天正11年より前の秀吉の書状に豪姫の名が出てこないことから同年説を採っているのです。筆者も「村井重頼覚書」の内容などからそれに従いたいと思います。
ちなみに豪姫の実姉、前田利家の三女、摩阿姫(おまあの方)は、秀吉の養女ではなく、側室となりました。
一緒に秀吉に育てられた武将と結婚
では、秀吉が豪姫の夫にしようと「契約」(約束)した宇喜多秀家とはどのような人物だったのでしょうか。秀家が生まれたのは元亀3年(1572)のこと(妻の豪姫より2歳年上ということになります)。その父は備前国(現在の岡山県南東部)の武将・宇喜多直家です。直家は天正10年(1582)頃に病死したと考えられ、その後継となったのが嫡男の秀家でした。父の直家は生前、織田信長に降っており、信長重臣で中国征伐の司令官・羽柴秀吉とも関係を築いていました。年少の頃に父を亡くした秀家は、天正12年(1584)頃までには秀吉に迎えられて、寧のもとで豪姫と共に養育されたとされます。
秀家は秀吉に厚遇され、天正13年(1585)には侍従、天正15年(1587)には従四位下、文禄3年(1594)には従三位・権中納言へと昇進していきます。秀家の「秀」の字も秀吉から一字を与えられたものでした。秀家と豪姫は天正16年(1588)までには結婚したと考えられています。
秀吉「男なら後継者にしたのに…」
天下統一を果たした秀吉は朝鮮や明国を征服せんとしますが、明国征服後は「日本の関白は秀長(秀吉の弟)の養子・秀保か秀家」にしようと構想していました。また秀吉は秀家が病になると医師を遣わし、秀家の容態を案じる書状を出しています。この事から秀家が秀吉に大いにかわいがられていたことが分かるでしょう。
豪姫もまた秀吉にかわいがられます。秀吉が豪姫のことについて触れた有名な書状は文禄2年(1593)のものでしょう(日付は欠いていますが、2月か3月の書状と思われます)。当時は文禄の役(第一次朝鮮出兵)の頃で秀吉は肥前国名護屋に在陣していました。そこに妻の寧から「豪姫が南の御方と名を変えた」との書状が届くのです。秀吉は「おね」(寧)に返事を書きますが、そこに豪姫のことが記されているのです。
秀吉はその書状の中で豪姫のことを「備前の御もじ」と呼んでいます(備前は豪姫の夫・秀家の領地です)。秀吉は豪姫が名を変えて「まんぞく」(満足)していることは承ったと先ず書いています。その上で豪姫が「男」ならば関白にさせたいが「女房」であるのでどうしようもないと記しているのです。
このことから秀吉が豪姫が「男であったならば……」と感じていたことが分かります。秀吉がなぜこのように感じたのか、具体的理由は不明ですが、おそらく豪姫に男勝りのところがあったのでしょう。
宇喜多秀家との間に3子を産む
秀吉は同じ書状の中で豪姫のことを「太閤秘蔵の子」とまで述べています。「太閤(秀吉)の秘蔵っ子であるので、寧よりも上の位にしたい。太閤の位ほどにはしたい」と寧に伝えているのでした。秀吉が豪姫を大切に思っていたことが伝わってくる内容です。秀吉は豪姫の夫・秀家のことも厚遇していましたが、その事も豪姫への溺愛に関係しているかもしれません(もちろん、その逆も言えることですが)。
さて豪姫は夫・秀家との間に子女をもうけています。天正19年(1591)には嫡男の秀高が生まれました。翌年(1592)には娘(理松院)が生まれ、慶長2年(1597)には次男の秀継が誕生しています。
豊臣一門としての扱いを受けていた豪姫の夫・秀家は、秀吉が亡くなる時(1598年)にはいわゆる「五大老」(豊臣政権の職制。徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)の1人となっていました。
夫は家康と並んで「五大老」に
死の床についた秀吉は、幼い我が子・秀頼の行く末を案じ、秀家にも「(秀家は)秀吉から幼少時より取り立てられているので、秀頼を盛り立てることを逃れることはできない」と遺言しています。多大な恩義に報い、秀頼に忠誠を誓うことを秀吉は秀家に求めたのでした。
そのこともあり、秀家は関ヶ原の戦い(1600年)では徳川家康(東軍)に敵対し、石田三成方(西軍)に加勢することになります。しかし周知のごとく、戦いは西軍の敗北に終わります。
秀家は徳川方の探索を逃れ、九州にまで逃亡することになりました。秀家が遠く九州にまで落ち延びることができたのは、豪姫の実母・芳春院の助力があったからではないかとの説もあります。秀家は薩摩国(現在の鹿児島県)にまで至り、西軍に与していた島津氏に庇護されました。
関ヶ原で負けた夫は薩摩まで逃げ…
ところが、徳川氏と島津氏との和睦が成立したため、秀家の薩摩潜伏が明らかになります。慶長8年(1603)に秀家は伏見に赴き、出頭。島津氏や前田家の嘆願もあって秀家は助命され、慶長11年(1606)、八丈島に流罪となります。秀家のみならず、豪姫との間に生まれた秀高・秀継兄弟も同島に配流となりました。秀高は16歳、次男の秀継はまだ9歳でした。
豪姫の実母・芳春院は八丈島にいる秀家らのもとに衣服や料紙、白米などを届けています。芳春院は「秀家1人が死ねば何もかも済むことなのに」と孫を配流の道連れにした秀家に恨み言を述べています(「村井文書」)。よって秀家に対してはあまり良い感情を持っていなかったでしょうが、芳春院はかわいい孫たちを気に懸けていたと思われます。秀家は本土に戻ることなく、厳しい生活に耐えた末、明暦元年(1655)に八丈島で死去。
嫡男の秀高は慶安元年(1648)に亡くなります。次男の秀継は明暦3年(1657)に病死しました。秀高と秀継には妻子があり、彼らの子孫は7家に分かれることになります。宇喜多一族が赦免され、島外に出ることが許されるのは明治の世になってからでした。
息子2人は八丈島に流され…
豪姫が産んだ息子たちは八丈島での生活を余儀なくされましたが、ひとり娘は咎めを受けることはありませんでした。慶長12年(1607)頃、豪姫はこの娘を連れて金沢に赴くことになります。実兄の前田利長(加賀金沢藩主前田家2代)から生活費(化粧田1500石)を与えられ、金沢城下で暮らしたのです。豪姫の娘は前田家の家臣に嫁ぎ、元和元年(1615)に没しました。豪姫はこれより以前、キリスト教の洗礼を受けています。
洗礼を受け、60歳前後で死去
そして「マリア」という洗礼名を授かったのです(『一六〇六年の年報』)。洗礼を受けたのは、夫や息子たちの加護を祈るためだったのかもしれません。
豪姫は関ヶ原合戦に出陣する夫・秀家の戦勝を大和国長谷寺(本尊の十一面観音)に願文を捧げて祈願していますが、その中に「何事もなく、災難なく、御弓矢の冥加(神仏の援助)がありますように祈念してください」「世上に中納言様は何人もおられますが、御名乗りは、秀家様と申します。よくよく心得て、御祈念をお願いします」との文言があります。夫の無事と戦勝を祈る豪姫の想いが伝わってくる内容です。
秀家を愛していた豪姫ですが、夫や息子たちよりも早く、寛永11年(1634)に金沢で亡くなります。亡くなる前に一目でも良いから夫と息子たちに会いたいと感じたことでしょう。
参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川書店、1965年)
・立石定夫『戦国宇喜多一族』(新人物往来社、1988年)
・大西泰正『宇喜多秀家』(平凡社、2020年)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)
・『歴史道43 秀長と秀吉』(朝日新聞出版、2026年)