石山本願寺攻めで村重が命令拒否

急ぎの出馬であったので十分軍勢がそろっていない状態でしたが、信長は3000の軍勢で敵軍1万5000に攻めかかりました。佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝が先陣となりますが、実はこの時、信長は村重にも「先を仕り候へ」と先陣を命じていました。ところが村重は「われわれは木津口の守備を致します」と信長の命令を拒否したのです。

月岡芳年画「本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長」
月岡芳年画「本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長」明治11年(1878)、(東京都立図書館所蔵

後で信長はこの件について「村重に先陣を務めさせないで良かった」と語ったとのこと(『信長公記』)。これは村重謀反の後の発言と思われます。敵の大軍に怯まず、信長は足軽にまじって指揮をとり、鉄砲傷を負いながらも本願寺方を追い詰めました。

織田信長による大坂の石山本願寺攻めを描く「石山合戦絵伝 第一幅」
織田信長による大坂の石山本願寺攻めを描く「石山合戦絵伝 第一幅」(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長の命令に背いた村重でしたがそれでもって信長から遠ざけられたわけではありません。天正5年(1577)2月には紀州雑賀攻めに加わっていますし、翌天正6年(1578)の元旦には「朝の御茶」を信長から下されています。そして、その年4月には村重は羽柴秀吉と共に播磨に出陣、6月には神吉城(兵庫県加古川市)攻めに奮闘しました。