大河ドラマでも映画でも注目
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において、織田信長と対立する摂津国の武将・荒木村重はトータス松本さんが演じています。また6月19日には村重を主人公とする映画『黒牢城』が公開されます。この映画で村重を演じるのは本木雅弘さんです。これまで一般的に有名とは言えませんでしたが、にわかに注目を集めている荒木村重とはどのような武将だったのでしょうか。
村重が生まれたのは天文4年(1535)のこと。村重が後年、仕えることになる信長は天文3年(1534)の生まれですので、村重は信長の1歳下ということになります。『荒木略記』によると、荒木氏は丹波国の波多野氏の一門であったが、牢人(無職)となり、摂津国川辺郡小戸庄(兵庫県川西市)に住んでいたといいます。「小身之体」にて居住していたというから暮らしは慎ましいものであったと思われます。
主君を追放し、下剋上で成り上がる
村重は荒木信濃守(義村)と中川佐渡守の妹との間に生まれました(中川佐渡は、秀吉方として賤ヶ岳の戦いで戦死する中川清秀の父に当たります)。摂津国池田城主の池田勝正に仕えていましたが、勝正は武勇に優れなかったため、村重は勝正を追放します(『荒木略記』)。永禄12年(1569)、室町幕府15代将軍・足利義昭が籠る京都本圀寺を三好三人衆らが襲撃しますが(本圀寺の変)、足利方として参戦した勝正は家臣を見捨てて逃走する醜態をさらしたと伝わります。
村重は勝正の子・直政を擁立しました。しかし直政もまた「悪人」(将としての器に欠けていたということでしょう)であったので、村重は直政を廃し、今度は勝正の次弟・池田知正を立てるのです。村重は「下剋上」によってのし上がっていったと言えるでしょう。
ちなみに村重は池田勝正の娘を娶ったとされます。その娘が村重の正室。村重の妻と言えば「豊臣兄弟!」にも出てくる美女の誉れ高い「だし」が有名ですが、だしは側室という見方が有力です。村重は池田姓を下賜された一門衆として、池田家の重臣として、同家の中で重きをなしたのでした。永禄11年(1568)に信長は足利義昭を奉じて上洛し、その後、畿内を中心に勢力を拡大。それに伴い、村重は信長に味方し、その部将として活動していくことになります。その時期は元亀4年(1573)とされます。
村重の「まんじゅう」話とは?
その頃には村重は茨木城(大阪府茨木市)の城主となっていました。元亀4年と言えば、足利義昭と信長との対立が先鋭化し、義昭が信長に対し挙兵した年です。同年2月、義昭は信長に敵対する意思を示しますが、信長はそれに対し入洛せんとします(3月25日)。その信長に「御身方」「御忠節」を尽くそうとして、逢坂(滋賀県大津市)まで出迎えたのが、『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)によると「細川兵部太輔」(細川藤孝)と「荒木信濃守」(荒木村重)の2人でした。
両人に出迎えられた信長はたいそう機嫌が良かったとのこと。その後、信長は東山の智恩院に布陣します。その際、南北朝時代の刀工・郷義弘が鍛えた「御腰物」を村重に、名物の脇差を藤孝に与えました。信長の武力に圧倒された義昭は一度、和議を結びますが、7月になると宇治の槇嶋にて再度挙兵します。村重は柴田勝家や羽柴秀吉らと共にこれを攻めています。
ちなみに、村重と信長の出会いと言えば、有名な「饅頭」エピソードがあります。村重が初めて信長に目通りしたとき、信長が刀を抜いて大きい饅頭を2、3個刺し貫き、「これ、村重」と差し出した。その場にいた人々が驚くなか、村重は大口を開けてその饅頭を食おうとし、これを見た信長は日本一の器と賞賛。腰に差した脇差を授けたというものです。
村重の物事に動じない豪胆さを思わせる逸話ですが、それから100年以上経った正徳2年(1712)刊の『陰徳太平記』に書かれたエピソードなので、本当にそういうことがあったかどうかは、疑わしいところです。
織田家臣団の一員となるが…
天正2年(1574)3月27日、信長は大和国に出かけますが、この時、村重は佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀といった織田宿老と共に「御奉行」として供奉しています(翌日、信長は正倉院の有名な香木・蘭奢待を目にすることになります)。翌年(1575)8月には越前国の一向一揆を鎮圧するため、村重は越前に出陣。鎮圧が完了すると、村重はすぐに播磨国に出陣することを命じられています(『信長公記』)。
そして天正4年(1576)4月には細川藤孝・明智光秀らと共に大坂の石山本願寺攻めに参加。この時、村重は尼崎から海上を進み、大坂の北の野田に砦3つを構築しています。その後、織田軍が苦戦し、織田方が籠る天王寺砦が窮地に立ったということもあり、5月5日には信長自ら出陣を決意。それは突然の出馬であって、信長はわずか百騎ほどを従えて河内国の若江に入るのです。
石山本願寺攻めで村重が命令拒否
急ぎの出馬であったので十分軍勢がそろっていない状態でしたが、信長は3000の軍勢で敵軍1万5000に攻めかかりました。佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝が先陣となりますが、実はこの時、信長は村重にも「先を仕り候へ」と先陣を命じていました。ところが村重は「われわれは木津口の守備を致します」と信長の命令を拒否したのです。
後で信長はこの件について「村重に先陣を務めさせないで良かった」と語ったとのこと(『信長公記』)。これは村重謀反の後の発言と思われます。敵の大軍に怯まず、信長は足軽にまじって指揮をとり、鉄砲傷を負いながらも本願寺方を追い詰めました。
信長の命令に背いた村重でしたがそれでもって信長から遠ざけられたわけではありません。天正5年(1577)2月には紀州雑賀攻めに加わっていますし、翌天正6年(1578)の元旦には「朝の御茶」を信長から下されています。そして、その年4月には村重は羽柴秀吉と共に播磨に出陣、6月には神吉城(兵庫県加古川市)攻めに奮闘しました。
ついに「村重謀反」の事態に
信長の命令に従い、諸国を転戦する村重。今後もそれが続くかと思われましたが、同年10月21日、信長のもとに「荒木摂津守(村重)が逆心を抱いている」との知らせが方々から寄せられます。信長は村重の謀反情報を信じず「何か不満でもあるのか。思うところがあるならば聞いてやろう」と使者(松井友閑・明智光秀・万見仙千代)を村重のもとに遣わします。
村重は「少しの野心もない」ことを使者に伝えたとされます(『信長公記』)。それを聞いた信長は大いに喜び、出仕を村重に求めますが、村重はそれに従わず。それでも信長は明智光秀や羽柴秀吉・松井友閑らに村重との交渉を命じますが、最終的に村重は信長を裏切ることになります。
村重はなぜ信長を裏切ったのか。信長に敵対する本願寺顕如は村重に起請文(天正6年10月17日付)を出し、その中で「当寺に味方するならば良いことも悪いことも互いに相談し、懇意にする」「公儀(足利義昭)や芸州(毛利氏)に忠節を尽くすならば、摂津国は申すに及ばず他国も(村重の)思いのままになるよう周旋しよう」と誓っています。村重は本願寺の勧誘に心動かされた可能性が高いでしょう。
ではなぜ本願寺の「誘惑」に負けたのか。羽柴秀吉が中国征伐の司令官になったことで織田政権のもとではこれ以上の出世は望めないと村重が考えたとも思われます。村重が籠ったのは摂津国の有岡城(兵庫県伊丹市)ですが、ここで約1年間、織田軍に抗戦することになります。
そして天正7年(1579)9月2日の夜、村重は5、6人の供だけで密かに有岡城を忍び出て、尼崎に入るのでした(『信長公記』)。これは「逃走」と捉えられがちですが、尼崎城には毛利氏の家臣・桂元将が詰めており、救援要請に向かったと考えられています。村重は有岡城にいた妻子や家臣らを見捨てたわけではなかったのです。
信長から城の明け渡しを求められ…
しかし村重の願いは叶わず、同年11月、有岡城はついに開城します。織田方は「花隈城(兵庫県神戸市)と尼崎城を開け渡せば、各々の妻子を助けよう」と提案し、それを有岡城にいた一族の荒木久左衛門や家臣が尼崎の村重に伝達しました(荒木の家臣らの妻子は人質として有岡城にいました)。
この時、村重が信長の意向を受け入れていたら、後の悲劇はなかったかもしれません。村重はよほど信長に不信感・嫌悪感を持っていたのか、信長の提案を拒否、両城を明け渡すことはありませんでした。
信長は荒木家臣の妻子122人を磔に
すると信長は堪忍袋の緒が切れたのか、荒木方の人質を都や尼崎近くの七松で処刑せよと命じるのです。七松では荒木家臣の妻子122人が磔にされます(12月13日)。そして鉄砲や槍・長刀でもって次々に殺されたのです。女たちの泣き叫ぶ声は「天」にも響くばかりであり、処刑を見物していた人々は恐ろしさに消沈し、その光景は目に焼き付き、なかなか忘れることができませんでした。
雑用係の武士の妻子や付人500人ばかりは、それぞれ4つの家に押し込められて、生きたまま焼き殺されます。その凄惨な光景に見物人は目を覆ったとのことです。12月16日には荒木一族の妻子が市中引き廻しの上、六条河原で処刑されます。
美人妻だしは六条河原で斬られた
その中には村重の妻・だしもおりました。『信長公記』によると、だしは21歳の若さであり、評判の美人だったようです。だしは夫や自分の運命を恨む気配はなく、護送の車から降りる時は帯を締め直し、髪を結い直すという落ち着きぶり。従容として斬られたのです。
荒木一族の妻子は見事な最期を迎えますが「下女」や召使いの女たちは死ぬのを嫌がり泣き叫んでいたと言います。その様を『信長公記』は「哀なり」と評しています。しかし、信長の荒木氏に対する恨みは深く、高野山で荒木方の浪人を匿っていたとして「高野聖」数百人を捕縛し、処刑したりもしています(1581年8月)。信長に妻子や家臣らを殺されて、村重としても断腸の思いだったでしょう。
なぜ村重は生き延びられたのか
村重はその後、毛利氏を頼り尾道に逃れました。わずか1年後、本能寺の変が起こり、その後は身を隠す必要がなくなったのでしょう。得意としていた茶道でもって秀吉に仕え、天正14年(1586)、堺で亡くなります。村重はよく「妻子を見捨てた」「逃げた」などと評されることがありますが、これまで述べてきたように有岡城を脱出したのは、信長にさらに抵抗・対抗するためでした。
毛利氏を頼ったのもその意思の表れでしょう。村重は信長に屈せず、最期は堺にて畳の上で平穏に死にました。一方、信長は天正10年(1582)6月、京都本能寺にて家臣の明智光秀に討たれたわけです。それを考えると、最終的な勝者は村重だったと言えるかもしれません。
参考文献
・伊丹市史編纂委員会編『伊丹市史』第2巻(伊丹市、1969)。
・宝塚市史編集専門委員編 『宝塚市史』第2巻(宝塚市、1976)。
・八木哲浩編『荒木村重史料』(伊丹市、1978)。
・天野忠幸『荒木村重』(戎光祥出版、2017)。