5年間で3人の息子に死なれる
文禄2年(1593)、智は出家し、瑞龍院日秀と名乗ります。ちなみに智は「大かみ様」と呼ばれていました。智は秀次のみならず、秀勝・秀保の母とされます。しかし秀保の生年は天正7年(1579)であり、智が45歳の時の子供。よって秀保の生母は智ではなく、別にいたのではとの説もあるのです(ここでは秀保は智の子ということにします)。
智が産んだ秀次・秀勝・秀保に次々と悲劇が襲います。まず、天正20年(1592)に次男・秀勝が朝鮮出兵中の巨済島において病死。享年24。文禄4年(1595)には3男の秀保が10代後半で病死。秀保は秀長の養子となり、秀長が天正19年(1591)に死去するとその後継となっていました。
秀次が切腹、妻子たちも処刑に
秀保死去の3カ月後には、秀吉に謀反を疑われた秀次が高野山で自害するという悲劇が起こります。その妻や側室、子たちまでも30人以上が処刑された秀次事件では、実父である弥助も連座し、讃岐国(現在の香川県)に配流されています。智自身は秀次事件で罰せられるということはありませんでしたが、息子たちのあまりにも早い死に悲嘆の日々を送ったことでしょう。
文禄5年(1596)、智は秀次たちの菩提を弔うために京都に瑞龍寺を建立(後に移転し、現在は滋賀県の八幡山城跡にある)。罪を得ていた弥助も許されて都に戻ってきます。弥助は慶長17年(1612)に死去しています。それまでには弟の秀吉が病死(1598)。智は弟・秀吉の死に何を思ったでしょうか。
弟さえいなければ、わが子(秀勝や秀次)は死ぬことはなかったと、秀吉に恨みを抱いていたでしょうか。それとも弟がいなければ、自分を含めた親族の出世や栄達はなかったと愛憎相半の想いを抱いていたでしょうか。智の心中には複雑な想いがあったに違いありません。