夫の弥助は馬を扱う小者だったか
一方、福田千鶴氏(九州大学教授)は、弥助は綱差という鳥を飼い慣らして準備しておく職業についていたのではと書いています。鷹狩りの際に獲物となる雉などの鳥を飼い慣らすことを生業にしており、農業に従事していた可能性にも言及しています(しかし、農業の専従者ではなかった)。
『祖父物語』では織田信長に仕官していた秀吉が弥助から馬を借りた、との逸話が収録されています。秀吉は信長から「来年、美濃国(現在の岐阜県)に攻め入るので、一門の者から馬を借りよ」と命じられたのでした。
そこで秀吉が頼ったのが姉(智)の夫であった弥助だったのです。秀吉は義兄の弥助のもとを訪ね、栗毛(明るい黄褐色)の雑役馬(雑用に使われた馬)を借りることにします。ところがその馬には、鞍はあるものの、鐙(乗馬の際、足を掛ける馬具)が片方しかありませんでした。よってもう片方を細引き綱で急ごしらえしたのです。秀吉には供に連れていく従者もおりません。よって弥助が供として付いていくことになった。しかも弥助は単に付いていったわけではなく、「乱妨取り」(略奪行為)をしながら付いていったということです。
見苦しい格好で美濃に出陣した秀吉ですが、坪内十郎右衛門という者を討ち取り、手柄を立てた……。『祖父物語』の記述を基に考えるならば、智と弥助は信長の美濃攻め(永禄4年=1561年以降)の頃までには結ばれていたということになります。
長男・秀次は秀吉の後継者になった
弥助は秀吉の姉・智を妻としたことで大きく人生を変えていくことになりました。また智との間に長男の秀次(「豊臣兄弟!」では幼名・万丸として登場)が生まれたことも弥助にとって大きかったでしょう。秀次は阿波三好一族の三好康長の養子となりますが、それに伴い、弥助も「三好吉房」を名乗ることになります(基本的には弥助の名で通します)。
秀次が天正18年(1590)に尾張国を秀吉から与えられると、弥助も犬山城主となります。そして後に清洲城主ともなっています。かつて馬貸しもしくは綱差をしていた弥助が城主にまでなったのですから、大出世と言えるでしょう。
その間、妻の智はどのような生活を送っていたのか。夫の弥助に随従したと考えられますが、残念ながら詳しいことは分かりません。ただ、天正19年(1591)、秀次が秀吉の後継者として関白に就任してからは、聚楽邸(秀吉が都に造営した邸宅。秀次が関白となると同邸は秀次のものとなった)に智は夫・弥助(その頃までには出家して三位法印と称していた)と暮らしていたようです。