専門職として女性の自立に寄与

多くの職業は、必要に応じて自然発生的にできました。病人やケガ人もどの時代にもいましたから、看病婦や看護人と呼ばれる人たちも昔からいました。でも、「看護婦(トレインド・ナース)は違います。女性が経済的に自立する手段として、意識的につくられた職業です。廃娼運動の旗手でもあった矢島楫子は、結婚生活で苦しみ、離婚しています。その後、苦労して40歳で教員となり、子どもたちを引き取ることができた経験から「女性が職業を持って自立することが大事だ」と考えていました。

明治27(1894)年、知命堂病院・産婆看護婦養成所の講師となった大関和(左端)と生徒たち、院長夫人の瀬尾ソノ(中央)
明治27(1894)年、知命堂病院・産婆看護婦養成所の講師となった大関和(左端)と生徒たち、院長夫人の瀬尾ソノ(中央)(写真=医療法人知命堂病院提供

ナイチンゲールの精神を日本で

当時、日本ではほぼ同時に三つの看護婦養成施設ができ、さらに東大病院や日赤(日本赤十字)病院も動き始めていました。その中で和たちが目指していたのは、看護師が自分たちの意志で自律的にプロフェッショナルとして働くという考え方でした。

でも、欧化主義から国粋主義へと時代が変わっていくなかで、そういう自主的な働き方はだんだん脇に追いやられていってしまった。だからこそ、雅が作った慈善看護婦会という民間の派出看護婦会の存在が、自律的な働き方を守り続けたという意味は大きかったと思っています。

私の本には遊郭や遊女が出てくるのですが、実際、看護婦と遊郭には切っても切れない関係にありました。

私が和や雅など、明治の看護婦たちについて調べていく中で強く惹かれたのは、女性のシェルターと看護師育成が結びついていたという史実です。廃娼運動の文脈の中で、娼婦や遊女として生きることを余儀なくされた女性たちを救出するシェルター的な施設があり、そこで看護師の育成も行われていた。そのシェルターから手に職をつけて独立した女性がいるという記録を見た時、本当に感動しました。最初に看護学校を作った人たちの願い――看護婦という職業を通じて女性が経済的に自立できるようにしたい――というのが、そのまま現実になっていたわけですから。