「風、薫る」(NHK)の原案本『明治のナイチンゲール 大関和物語』はフィクションも交えた評伝。著者の田中ひかるさんは「ドラマでは、直美が教会で育った設定になっていますが、実際にはりんのモチーフの大関和も敬虔なクリスチャンでした」という――。

りんのモチーフもクリスチャンだった

私は『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)を執筆する過程で、明治の女性たちのシスターフッドを史料の中で何度も目にしました。大関ちかと鈴木まさの2人が助け合っていたとか、こんな会話をしていたという史料はまったくないのですが、行動の記録を追っていくと、自然と助け合いの構造が見えてくる。例えば和が早朝に教会へ行くときに、広瀬梅が心配してついていくとか、若い女性たちがお互いを思いやっている姿がいくつもありました。

そもそも、和が早朝から欠かさず教会へ足を運ぶほどキリスト教(プロテスタント)への信仰を深めていたことは、彼女の看護を語るうえで欠かせない背景です。「風、薫る」では鈴木雅をモチーフとする大家直美が教会に捨てられ転々と育ったという設定になっていますが、史実においてキリスト教と深く結びついていたのは、むしろ、りんのモチーフ、大関和のほうです。

大関和は離婚を経験して…

離婚後に実家へ戻った和は、英語習得のため牧師・植村正久の弟が経営する英語塾に通い始めます。塾生たちのほとんどがクリスチャンで、聖書の話やイエスの教えが和の心に自然となじんでいった。かつて夫の妾問題に苦しんだ身として、「一夫一婦」を説くキリスト教の教えに強く惹かれました。やがて植村正久の母からも直接その教えを聞き、さらに深く感化されていった和は、植村正久が牧師を務める一番町教会(のちの富士見町教会)に足を運ぶようになり、1887年(明治20年)に受洗します。

大関和と親交があったキリスト教伝道者・植村正久の肖像、1925年以前
大関和と親交があったキリスト教伝道者・植村正久の肖像、1925年以前(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

以来、「病む人に寄り添うことは、神の愛を人の世に示すことだ」という信仰が、和の看護の精神的な土台となりました。患者のそばで徹夜を重ね、部下のために職を賭して抗議し、帝大病院を去った後は新潟の女学校で伝道を行った和の姿は、この信仰なしには語れません。

この時代に、専門的に学び職業を持って働いている女性の数はまだほんのわずかでした。その限られた人たちが助け合わなければ、とても仕事を続けられなかったと思います。さまざまな制約があるからこそ、女性たちは支え合わなければ生き抜けなかったはず。看護の道に進んだ女性たちは、思いやりのある優しい人だったという資質的な理由ももちろんあるでしょう。しかし、それ以上に、厳しい時代の必然として、シスターフッドがあったのだと思っています。

和と雅の絶妙なバランス

和と雅の2人の関係について私がずっと感じていたのは、「正しいことをしたい」という根本的な価値観が同じだということです。それぞれにやり方はまったく違う。和は感情が先に出て、後先を考えずに患者のために走る――「泣キチン蛙」と呼ばれるほどよく泣く、感情の豊かな人でもある。一方、雅はもっと周到で、看護婦会の設立時に労働条件を一から整えるような緻密さがある。

物語を読んだ方の中には2人の関係について「ボケとツッコミのバディみたい」とおっしゃる方もいるのですが、まさにそういう感じで、和の直情径行に雅がバランスを取っている面がある。でも、2人は見ている方向が同じで、同じ方向に向って歩いているからこそ、横には目を向けず、互いに隣に並ぶ相手について何かを書いたり、記録に残したりしていないのではないか。それが大関和と鈴木雅についての史料からも読み取れます。

桜井看護学校1期生の卒業写真。左から鈴木雅、指導者のアグネス・ヴェッチ、大関和
桜井看護学校1期生の卒業写真。左から鈴木雅、指導者のアグネス・ヴェッチ、大関和(写真=医療法人知命堂病院提供

もうひとりの同期生、広瀬梅

私が本を書く中で初めて知った人物が、和や雅と桜井看護学校の同期生だった広瀬梅です。梅は桜井看護学校では、和や雅よりも10歳年下の同期生で、卒業後は慈善活動に努め、後に渡米し、看護師・助産師として多くの日本人移民を助けた方なんです。

梅さんだけで本が一冊書けるくらいすごいことを成し遂げた方で、勉強がしたくて家出同然に岡山から上京してきたり、津波で親を亡くした赤ちゃんを一人で育てようとしたり、アメリカに渡り、40年もの間、日本人移民のために尽くしたり、とにかくドラマチックな人生を送りました。梅を主人公としたミュージカルも作られ、2026年末に各地で上演が予定されています。

初期の看護婦は「選ばれし人」

それから、もともと歴史的には身分の低い人が病人の世話にあたっていたわけですが、桜井看護学校の一期生のメンバーを見ると、みんなすごく優秀なんですよ。私は最初、看護婦に対する偏見が強かった時代だから入学希望者が集まらず、寄せ集めのメンバーだったのかなと思っていたのですが、調べていくうち、選ばれて声をかけられた人たちだったということが分かってきました。

たとえば梅はもともと向学心があり、桜井女学校で英語を学んでいたからこそ英語で書かれた看護の専門書を読むこともできました。看護学校を設立したマリア・ツルーや矢島楫子やじま・かじこたちは「確かな技術をもった看護師」(トレインド・ナース)を育てるという高い志を持ち、その目的を達成するために優秀な女性たちを集めたのです。

専門職として女性の自立に寄与

多くの職業は、必要に応じて自然発生的にできました。病人やケガ人もどの時代にもいましたから、看病婦や看護人と呼ばれる人たちも昔からいました。でも、「看護婦(トレインド・ナース)は違います。女性が経済的に自立する手段として、意識的につくられた職業です。廃娼運動の旗手でもあった矢島楫子は、結婚生活で苦しみ、離婚しています。その後、苦労して40歳で教員となり、子どもたちを引き取ることができた経験から「女性が職業を持って自立することが大事だ」と考えていました。

明治27(1894)年、知命堂病院・産婆看護婦養成所の講師となった大関和(左端)と生徒たち、院長夫人の瀬尾ソノ(中央)
明治27(1894)年、知命堂病院・産婆看護婦養成所の講師となった大関和(左端)と生徒たち、院長夫人の瀬尾ソノ(中央)(写真=医療法人知命堂病院提供

ナイチンゲールの精神を日本で

当時、日本ではほぼ同時に三つの看護婦養成施設ができ、さらに東大病院や日赤(日本赤十字)病院も動き始めていました。その中で和たちが目指していたのは、看護師が自分たちの意志で自律的にプロフェッショナルとして働くという考え方でした。

でも、欧化主義から国粋主義へと時代が変わっていくなかで、そういう自主的な働き方はだんだん脇に追いやられていってしまった。だからこそ、雅が作った慈善看護婦会という民間の派出看護婦会の存在が、自律的な働き方を守り続けたという意味は大きかったと思っています。

私の本には遊郭や遊女が出てくるのですが、実際、看護婦と遊郭には切っても切れない関係にありました。

私が和や雅など、明治の看護婦たちについて調べていく中で強く惹かれたのは、女性のシェルターと看護師育成が結びついていたという史実です。廃娼運動の文脈の中で、娼婦や遊女として生きることを余儀なくされた女性たちを救出するシェルター的な施設があり、そこで看護師の育成も行われていた。そのシェルターから手に職をつけて独立した女性がいるという記録を見た時、本当に感動しました。最初に看護学校を作った人たちの願い――看護婦という職業を通じて女性が経済的に自立できるようにしたい――というのが、そのまま現実になっていたわけですから。

100年後の今につながった奮闘

そして、そうした思いは今も脈々と続いています。私の周りでも、離婚してから看護学部に入った人がいます。彼女は結婚や出産で一度仕事を辞めてしまい、元のポジションに戻れないから、この先、一生働ける資格を取ろうと看護師の道を選びました。

田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)
田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)

この「看護師」という職業が自立の選択肢として今でも選ばれ続けている現実を見ると、明治に看護学校を作った人たちの祈りが百年以上たった今も生きているということを実感します。看護師というのは人の命を直接救う職業ですが、それと同時に、この専門的な職業があることで間接的に救われてきた女性が、これまでにどれほどいたことでしょうか。

執筆のための取材をする過程で私が実感したのは、「明治」という時代は確実に今とつながっているということです。大関和は1932年(昭和7年)まで、雅は1940年まで生きている。私の祖母も明治生まれで、実際に和や雅のひ孫さんや玄孫さんとお会いして、明治時代をすごく近くに感じました。100年前に懸命に生きた女性たちの選択が、今の私たちの選択肢につながっている。

評伝で一番伝えたかったこと

私が一番伝えたかったのは、「選択肢のない時代に自ら選択肢を作った人たち」の物語だということ。結婚相手も親が決めるのが当たり前で、生まれた家や身分で生き方がほぼ決まってしまう時代に、積極的に自分の意思で別の道を選んだ人たちがいた。和も雅も、その選択によって苦労を背負い込んだ面もあり、当時としては相当に異端な人生でした。

でも、その異端が日本の近代看護の基礎を作り、女性が職業を通じて自立できる道を切り開いたのです。「風、薫る」のキャッチコピー「道をはずれた人から、いつも道は生まれた。」を見たときに、私が執筆する中で感じたことと、制作陣の皆さんが大事にするテーマが同じだと感じました。私の著書も、史実をベースにしつつ、創作部分がたくさんありますし、ドラマは大関和と鈴木雅「モチーフ」としたオリジナルの物語です。いずれも設定もストーリーも全然違うけれど、向かっているところは同じだと感じ、うれしくなりました。私はもともとすごく朝ドラが好きなので、むしろネタバレを見ないようにして楽しみにドラマを観ているんですよ。

田中ひかるさん
撮影=プレジデントオンライン編集部
田中ひかるさん

そして、自ら道を切り開き、選択肢を作っていった大関和や鈴木雅の影に、選択できなかった大勢の人たちや、選択したけれどうまくいかなかった人たちがいる。名前や写真まで後の世に残っているのは、本当にわずかな幸運な人たちです。そのわずかな開拓者たちをドラマが取り上げてくれた意義は大きいと思いますし、そこで生まれた選択肢が、100年以上たった今も誰かの手の中に確かにある。今回のドラマ化を通じて、歴史の中に埋もれ、忘れ去られていた人物が掘り起こされ、地域の誇りになっていく――そこに彼女たちが切り開いた道の続きを見る気がしています。