和はどうやって英語を学んだのか
和が英語を学んだのは、植村正度が開いていた英語塾です。そこでキリスト教に興味をもち、正度の兄、植村正久牧師に出会います。
和の夫については、故郷・黒羽の士族「柴田豊之進福綱」という名前にしていますが、本名は違います。当時の時代性を考えるとそれが当たり前のところもあったのかと思いますが、「妾」がいて、それが離婚の原因となっています。諸々考えて、ここで史実どおりの名前を使う必要はないと判断しました。
和は1876年(明治9年)に19歳で結婚し、長男・六郎、長女・シンを産んだ後、離婚しています。本でも書いたように、(社会運動家の)木下尚江との結婚を考えた時期もありましたが、破局しています。その後も和には結婚願望が強くあったようです。まわりに仲のよい夫婦が多かったことも影響しているでしょう。
感情が激しすぎる面もあったが…
実は、大関和のキャラクターについて、調べ始めた頃は正直、物語の主人公として大丈夫かなという不安もあったのです。当時の記録では、こんな記述があるんですね。
「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄うのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう、それじゃ宛然『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代 第二巻』)
「泣キチン蛙」はもちろんナイチンゲールをかけた言葉で、それほどよく泣く人だったという意味です。これを読んだばかりの頃は、主人公として感情的すぎないかと不安もあったのですが、調べていくうちに、感情が豊かなだけで芯は強く、相手が誰だろうと、臆せず忖度せずに言いたいこと、言うべきことをビシッと言えてしまう人だということがわかってきました。
内務省衛生局の局長だった後藤新平――公衆衛生行政の中枢にいた人物――に看護婦についての制度を作ってほしいと直談判しています。泣きながら談判するのですが(笑)、やることはきちんとやってのける。最後は大好きになりました。
和はシングルマザーで、亡夫の恩給があった雅ほど生活が安定しておらず、そのなかで子どもを養わなければいけないのに、せっかく就いた帝大病院の看病婦長という看護婦としては日本一の仕事を、部下のために建議して辞めてしまう。保身に走らず、自分が正しいと思ったことをする。そこが和という人のすごさだと思うんです。