大関和は黒羽藩家老の次女だった
大関和は1858年(安政5年)、現在の栃木県大田原市黒羽田町、当時の黒羽藩重臣・大関弾右衛門増虎の次女として生まれました。増虎は藩主・大関増裕に仕えた忠臣で、増裕は1868年1月(慶応3年12月)に急死しています。増裕の死については、和が父から聞いた話として「自ら死を選んだ」としているので、私はそれを採用して書いたのですが、事故説や暗殺説もあります
私も藩主が亡くなった那須神社の裏手に行ったことがありますが、今は何も残っていない草むらでした。そして、増虎は1876年(明治九年)に50歳で亡くなっています。本書の中では、お母さんにできたのはおまじないに頼ることだけだったということ、そして和が最初に命のはかなさを知った出来事として描いています。
朝ドラご当地である栃木県大田原市
地元の大田原市では、朝ドラを機に郷土の偉人を知ってもらおうと、各所で大関和についての展示が行われたり、生家があったあたりに記念碑が建てられたり、とても盛り上がっています。
大田原市那須与一伝承館では今年3月から特別企画展も始まっています。地元の方々と話していて感じるのが、黒羽という土地の学問への高い意識です。和がこれほど多彩な知識を身につけていたのも、学芸を重んじるこの土地の気風が育んだものなのかもしれない、という気がしています。
和がいつ上京したかも二説あります。10歳で上京したという説と、離婚するまで地元にいたという説と。本では10歳で上京した説をとりましたが、離婚後に上京したと考える方が自然です。
上京後の一家がどのように生計を立てていたかについても諸説あります。一説には、雑貨を売る商売をしており、外国人の客とやりとりするために英語を習ったということです。