※本稿は、青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
東京帝大から解雇されて激怒
西大久保に引っ越してから丸1年が過ぎた明治36年(1903)3月、ハーンは東京帝国大学を解雇された。
日露戦争開戦の1年前、朝鮮半島と満州の支配権をめぐり日本はロシアと一触即発の状況だった。三国干渉の時の屈辱を忘れず臥薪嘗胆の思いで富国強兵に励み、大国ロシアに戦いを挑む強力な近代国家に成長している。日本人の自尊心も高まってきた。
もはや、給料の高いお雇い外国人に頼らずとも、日本人の力で近代化をやり遂げることができる、そんな風潮が顕著になっている。東京帝国大学でも外国人の教授や講師との契約を打ち切って、欧米から帰国した留学生に置き換える方針を立てていた。講師の身分でありながら大学総長と同額の高給を貰っていたハーンは、恰好のターゲットだったようである。
しかし、ハーンの講義は学生たちには人気があった。解任の噂が流れると「ヘルン先生のいない文科で学びたくない」と大勢の学生が大学側に詰め寄り、解任撤回を求めて大騒ぎになっている。ハーンが講義で語る言葉は、ロマンチックで情緒にあふれ、文学好きの若者たちにはツボだった。また、自分で考えさせて答えを見つけさせるというやり方に、学生たちは探究心を刺激されて面白がる。
ハーンの後任は明治の文豪だった
ハーンの後任として講師になったのは、この2年後に『吾輩は猫である』を発表して人気作家となる夏目漱石だった。熊本の第五高等学校にもハーンの後任英語教師として赴任したことがあり、ふたりの文豪はなにやら因縁めいたものを感じさせる。
情緒的なハーンの講義とは違って、漱石は英語を理詰めに分析しようとする。それが退屈でつまらなくて「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」などと、学生たちはハーンと比較して批判した。あげくに受講のボイコットや所属学科の変更を願い出る者まで現れる不人気ぶり。漱石もそれをかなり気にして、
「自分のような書生あがりが、英文学の権威者である小泉先生のような立派な講義ができるはずもない。学生たちが満足してくれる道理もない」
と、妻の鏡子に愚痴を言っていたという。