夏目漱石の年収は3200万円ほど
しかし、東京帝国大学が漱石に支払っていた年俸は800円(編集部註:現在の人件費の価値で約3200万円)、月給にすれば66~67円(同・約266万円)である。ハーンが貰っていた年俸はその約6倍(同・約1億9200万円)。ロシアとの緊張が高まり軍事費は膨張の一途、その皺寄せで文教予算は大きく削られている。大学も大幅な経費削減をせねばならず、お雇い外国人に高い給料を支払っている余裕はない。教授や講師の国産化も進めてゆかねばならなかった。ハーンに支払う月給分で、6人の日本人講師を雇い教育者として育てることができるのだ。解雇は仕方のない判断だった。
そのあたりの事情はハーンもよく理解している。外国人講師の解雇は時代の流れ、仕方がないとは思っているのだが……事務方は今後の契約について何も言ってこないし、総長や学部長からの話も一切ない。ある日突然に、3月末日での解雇を通告するという事務的な文書が送られてきただけ。そのやり方が気に入らない。冷たい対応に激怒した。
五高を辞めて熊本を去った時の経緯にも似ている。ハーンは日本人以上に不義理を嫌う。情の通ったやり取りがあれば、あるいは、納得して円満に辞任していたのかもしれないのだけれど……。
大学幹部の中にはハーンの解雇を惜しむ者もおり、講義の数を減らして講師を継続させる案も出ていたという。しかし、彼がこの状態に陥るともはや交渉は不可能。誰が何を言っても聞く耳を持たなくなる。
1億9200万円の年収を失ったが…
また職を失ってしまった。しかし、セツもいまはこの程度のことでは慌てない。
「パパ様は今度帝国大学の方をお止めなさることになりました。パパ様のことだから私達が食べられないで困るようなことはなさらないだろうけれど、何分普請をした後ではあり、今までよりは収入もずっと減るのですから、お前もそのつもりで我儘をいってはいけませんヨ」(『父「八雲」を憶う』)
(長男の)一雄にはこう言っていた。不安な感じはなく、落ちついて悠然と構えている。作家活動のほうが順調で、十分に暮らしてゆけるだけの原稿料や印税収入があった。そんな経済的なゆとりが態度に表れているのだろうか。また、これまで幾度も危機を経験しながら乗り切っている。その経験からくる自信もあったのだろう。
講師を辞めてからのハーンは書斎に籠って執筆する時間が増え、それを手伝うセツの仕事もまた増えていた。神田や浅草などの古書店をめぐり、妖怪や怪談に関する古い文献を探しまわる。手に入れた本の内容をハーンに語って聞かせれば、それが物語に仕上げられてゆく。10年以上もつづくふたりの共同作業である。