フィクションという説

じつは、秀吉が華々しく成功して出世への足がかりをつかんだきっかけとして、よく知られている「墨俣一夜城」の逸話に対しては、フィクションだとする声も根強い。そう主張する側の最大の根拠は、織田信長の事績を細かく記録した太田牛一著『信長公記』が、「墨俣一夜城」に一言も触れていないことにある。

墨俣一夜城については、どこに書かれているのかというと、江戸時代初期にまとめられたとされる『武功夜話』だが、この史料に対しては、「創作だ」「ニセモノだ」という声が絶えないのである。だが、ともかく、どんな史料なのか説明しておきたい。

愛知県江南市前野にある吉田家(前野姓から改姓された)から昭和34年(1959)に発見されたという『前野家文書』の一部が『武功夜話』で、そこには、墨俣一夜城が築かれた経緯がかなり具体的に書かれていることがわかった。活字化され、昭和62年(1987)に出版された際には、戦国史をひっくり返す衝撃的な史料として注目された。

実際、そこには墨俣一夜城を築城した経緯が、たとえば、以下のように記されている。

江戸時代にまとめられた史料によると…

まず、蜂須賀正勝が前野長康に宛てた永禄9年(1666)7月の書状は、次のようなものである。

「今般木下藤吉郎殿御忍びにて拙宅罷在候、ヒソヒソ語にて美濃斉藤左兵衛太夫殿を織田上総殿御退治の旨伝候。夜陰に乗じ墨俣へ押出し城を築く策有之藤吉郎殿申される様、八曽材にて柵を作る由有之縄も藤づるにて結ぶ事道具肝要と心得居り候

(このたび木下藤吉郎殿がひそかに拙宅にいらして、内緒の話として美濃の斎藤龍興殿を織田信長殿が攻略されると伝えられました。夜の闇を利用して墨俣に進攻して城を築く計画だと藤吉郎殿はおっしゃり、八曽からの木材で柵を作り、柵は藤づるで結ぶというので、道具も大事になってきます)」

「太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝」
「太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝」(写真=東京都立図書館/歌川芳幾画/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

かなり具体的である。あるいは、前野長康の言葉としてこんな文言も。

「墨俣なる処大小の河川沼沢入り乱れて空き地なり。織田上総殿稲葉城正面をさけて此の地点に城を築くと言ふ。戦はずして勝つ夜打朝駈けは我らの得手也

(墨俣という場所は大小の河川や沼が入り乱れた空き地です。織田信長殿は稲葉山城の正面を避けてここに城を築くといいます。戦わずに勝つ夜襲や朝の不意討ちは我らが得意な戦法です)」

「墨俣本拠築城は夜之を取行ふもの也(墨俣の築城は夜行うこととします)」