最も有名な弟、織田有楽斎
信秀の11男・織田源五郎長益は号を有楽斎といい、東京都の有楽町は有楽斎の邸宅があったことに由来する。茶人として有名で、「利休の七哲」の一人。本能寺の変の際には甥・信忠に従って二条城にいたが、周囲を欺いて安土城に逃亡。
関ヶ原の合戦では家康方について参陣。大和国山辺郡のうちに加増され、都合3万石の大名となった。関ヶ原の合戦後、信包・長益兄弟は姪・淀殿、およびその子・秀頼を補佐した。慶長16(1611)年には二条城で家康・秀頼の会見に奔走し、慶長19(1614)年に兄・信包が急死、片桐且元が大坂城を去ると、長益が入城して秀頼を後見した。その反面、ちゃっかり家康に内通し、大坂城の内部情報を通報していた。大坂冬の陣が起こると、家康の意を受けて講和に尽力するが、大坂夏の陣の直前に城を出ている。長益の四男・織田丹後守長政、五男・織田大和守尚長の子孫はそれぞれ大名に列している。
姉妹の6人は織田一族へ嫁ぐ
信長の姉妹のうち6人が織田一族(津田、飯尾を含む)に嫁いでおり、父・信秀もしくは当時の信長が一族重視の婚姻政策を取っていたことがわかる。
・小田井殿 小田井城(愛知県清須市西枇杷島町小田井)の織田又六郎信直の妻
・犬山殿 犬山城(愛知県犬山市犬山)の織田十郎左衛門信清の妻
・(名不詳)小幡城(名古屋市守山区小幡)の津田市介信成の妻
・野夫殿 野府城(一宮市開明)の津田九郎次郎元嘉の妻
・(名不詳)津田出雲守(詳細不明)の妻
・(名不詳)奥田城(稲沢市奥田)の飯尾隠岐守尚清の妻