父は白人の農場主、母は黒人奴隷
マティもまた、幽霊を見る娘だったのです。しかし、冷静に考えてみると、幽霊などという超自然現象は、そんなにしょっちゅう起きるものではありません。全くその存在を否定するつもりは毛頭ありませんが、マティの場合は豊かな想像力の産物だった可能性も考えられます。
では、マティはどのような少女時代を過ごしたのでしょうか。彼女は1854年にケンタッキー州のメイスヴィルで生まれました。白人の農場主と黒人の奴隷との間に生まれた子供というのが定説になっています。
南北戦争中は、近郊の白人家庭に雇われていました。
アメリカのリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出したのは1863年で、その時、マティは9歳でした。働きながら各地を転々としていたマティは、14歳の時、ケンタッキー州のドーヴァーで男の子を産みます。父親はアンダースンというスコットランド人だったといわれています。
ウィリーと呼ばれる男の子を出産して1年もたたないうちに、マティはシンシナティに出て来ました。そしてプラム街の下宿に住み込みで働くようになりハーンと知り合うわけです。
現代の私たちの感覚からいうと、アメリカの奴隷制度は百年以上も昔に廃止された制度であって、もはや歴史上の出来事です。しかし、ハーンがマティと知り合った頃は、まだ生々しくその後遺症が残っていました。社会そのものが黒人を低い地位に見ていました。常に弱い者や貧しい者に心を通わせるハーンにとって、この白人の優越意識は許せないものだったのでしょう。前出のティンカーの文章は次のように続いています。
「感謝の気持ちで恩義を感じた彼はドンキホーテのように、邪悪をただすべく彼女と結婚することに決めた。それは他の人たちをひどく驚かせたのと同じくらい彼女のことも驚かせた。」
白人と黒人の結婚は禁止だった
知り合って2年後の1874年6月に、ハーンは彼女との結婚を決行しました。しかし、これはティンカーが言うように、確かに「ドンキホーテのよう」な行為だったのです。白人が黒人か、あるいは黒人との混血児と結婚することは、単に社会的に受け入れられなかったばかりではなく、法律的にも禁じられていました。
最初に頼んだ牧師には断られ、ようやく二番目に頼んだ黒人の牧師が引き受けてくれて、二人は式を挙げました。ただし、役所には受け付けてもらえず、正式に登録されなかったものと思われます。
この時、ハーンは間もなく24歳で、マティは22歳でした。思い込みが激しく、感受性に富む青年と、想像力が豊かで、空想を現実に取り込むのが上手な娘は、二人とも日常から少し遊離したところで生きているという点では共通項があったのではないでしょうか。
1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。
