朝ドラ「ばけばけ」(NHK)ではラフカディオ・ハーン(小泉八雲)をモデルとするヘブンがアメリカ時代に結婚していたことを明かす。作家の工藤美代子さんは「ハーンの別れた妻マティには、二番目の妻となる小泉セツと同じ“語り”の才能があった」という――。

※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。

アメリカに渡り新聞記者として成功

アメリカ・オハイオ州の都市シンシナティで、ハーンの新聞記者としての名声は確立します。センセイショナルな記事をものにして、間違いなく『シンシナティ・インクワイヤラー』で最も優秀な記者と目されるまでになりました。

新聞「シンシナティ・エンクワイラー」、1912年の紙面
新聞「シンシナティ・エンクワイラー」、1912年の紙面(画像=カリフォルニア大学図書館/ハリー・フランクリン/セオドア・トーマス/Flickr-no known copyright restrictions/Wikimedia Commons

当時、ハーンは24歳になったばかりの青年であり、正規の教育はほとんど受けていませんでした。ヴィクトル・ユゴーなどを引き合いに出す文学的素養は、すべて独学で身につけたものでした。

まるで魔法の杖でも持っているように、あらゆる素材をたちまちのうちに興味深い読み物に変えてしまうハーンの記事は読者の熱狂的な支持を得ました。

ところが、そのハーンが1875年の夏には新聞社を退社せざるを得ない状況に追い込まれます。それは黒人との混血だったマティ・フォウリという女性との恋愛が原因でした。

彼女は母のように面倒を見てくれた

二人の出会いは1872年頃だったといわれています。マティはプラム街125番地の下宿屋で料理人をしていました。この時、ハーンがその家に下男として住み込んだという説と下宿人だったという説とあるのですが、いずれにしても内気で人づきあいの苦手な22歳の青年と、18歳の娘は恋に陥ったのです。

マティに関しては、現在でも、あまり良い評価はなされていません。それは、この恋愛が数年で破局を迎え、その後もハーンがマティの行状に苦しめられた記録が残っているためです。ただ、私はマティにだけ一方的に非があるとするのは、ちょっと酷だという気がしています。

まず、二人が惹かれあうようになった経緯については、エドワード・L・ティンカーがその著書の中で比較的詳しく触れています。

「冬の寒い日々、彼が疲れ果てて職場から遅い時刻に帰って来ると、彼女はいつも食事を温めていてくれた。そして、彼の洋服が雨や奏で濡れていると、彼女は火でそれを乾かしてくれた。彼女は行動で親切を示して、母親のように面倒を見てくれた。それは彼が長い年月で初めて受けたものだった。彼は英国人だったので、他の人たちよりも肌の色への偏見がずっと少なかった。こうした親切がじょじょに特別な関係へと変わっていった。彼は重い病気にかかり、アリシアは献身的に看病した。彼は彼女が生命を助けてくれたと思ったのだった。」

文中にアリシアとあるのは、マティが二つの名前を名乗っていたからです。ティンカーの、ハーンが英国人だったため、アメリカ人よりも肌の色に対する偏見が少なかったというのは、なかなか興味深い指摘です。その上、彼にはギリシャ人の血が流れていて、自身もオリーヴ色の肌をしていました。また、幼い頃に別れた、肌の浅黒い母親に憧れを抱いていたことも関係があったでしょう。マティが美しく、やさしい娘であれば、黒人との混血であったとしても、さして障害とは考えなかったようです。