「やる気」を見ている

スズキの元社員は言う。

「修会長に、何らかの提案をしたとき、『(提案の)根拠は』、『絶対に大丈夫なのか』、『将来予測へのエビデンスを出せ』と、修会長は矢継ぎ早に問いただし続ける。提案者は答えられなくなり、その時点で彼のサラリーマン人生は終了します。モノが言えない企業体質にしてしまったのは、修会長の責任だったと僕は思う」

これに対して比嘉勉は、言う。

「修さんは現場を回っていても、現場で起きている問題が自分にまで上がってこないことを、実は感じていた。独裁者として、危機意識を持っていたのです。現実に、HY戦争のときなど、外部から指摘されるまで販売現場の実態を修さんはつかめてはいなかった。

そのため、一時はこんな風に言ってました。

『困ったときには、赤子のように泣け。赤子は困ったら泣くだろう。だから親は気づくんだ。なんで、みんな泣かないんだ』と」

泣かないのは、経営トップに対する畏怖を社員のみんなが持っていたからだろう。鈴木修がこう言ったのは、彼が76歳だった2006年とされている。後述するが、トヨタ・ダイハツ連合との間で熾烈なシェア競争を繰り広げる中で、ある重要な決断を下した年だった。

石黒寿佐夫は、こんな指摘をする。

「修さんから問い詰められたとき、決して怯んではいけません。強気にぶつかっていくのです。数字が間違っていてもいい。とにかく、即答していく。修さんも正確な数字などは、わかっていない。いや、時々わかっていてやっかいなんですけど……、とにかくこちらの本気度を示していくのです。理屈よりも本人のやる気を、どうも修さんは見ている。鍛えられますよ。“すみません”は言ってはいけない」

三洋電機の教訓

現実として、戦後の経営史の中でも、実力経営者が会社で起きていた実態をつかめずに、巨大企業そのものが傾いた事例は過去にもあった。

永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)
永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)

1985年、東京三洋電機製の石油ファンヒーターによる、一酸化炭素中毒の死亡事故が相次いで発生した。同社および三洋電機社長だった井植薫は、大阪商工会議所にいてテレビのニュースで初めて事故を知る。会社の幹部たちは重大事故を、トップに報告しなかったのだ。創業者の弟である井植薫は、71年から両社社長の座にあり長期政権を敷いていたが、引責辞任。東京三洋は半導体やコンプレッサーなども作る優良企業だったが、家電を作っていた三洋電機と合併し消滅。ちなみに、三洋電機も経営不振から2011年にパナソニックの完全子会社となり、そのブランドは消える。

周囲からチヤホヤされたり、忖度される“裸の王様”にトップがなることの危うさを、鈴木修はどうやら最初からわかっていた。それでいて、孤高の独裁者だけが持つ、真実がわからなくなる不安と、いつも闘っていたようにも、筆者には思える。だから、現場を回り続けていた。いや、自分の足で回るしか、真実を知る術はなかった。