日本の通信事業は1985年まで国有事業だった。政府は市場競争によって通信料金を下げようと「通信自由化」を決め、電気通信事業法を発効。通信事業への新規参入が可能になった。このとき稲盛和夫氏が創業したのが「第二電電(DDI)」だ。DDIはその後、2000年に日本移動通信(IDO)と国際電信電話(KDD)との3社合併を行い、現在のKDDIとなる。小野寺正会長は、DDIの創業メンバーであり、稲盛氏に最も近い経営者の一人である。
「100年に1回」通信自由化の衝撃
稲盛さんに初めてお会いしたのは、83年の秋です。私は電電公社の課長補佐。同じ電電公社の千本倖生さん(イー・アクセス創業者)から、「通信が自由化される。新会社の立ち上げを一緒にやらないか」という話をもちかけられ、京都へ行くことになりました。それまで京セラや稲盛さんについては、ほとんど知りませんでした。千本さんは、「とにかく会ってみればわかる」というだけで、何も教えてくれない。期待と不安が入り交じった気持ちでした。
稲盛さんにお会いしたとき、まず「すごくアグレッシブな人だな」と思いました。「(通信自由化は)100年に1回のチャンスだ」と仰ったのを覚えています。
ただ、通信事業を新たに始めるには様々な困難が予想されました。通信は許認可事業ですから、国から免許を取得する必要があります。また私は事業費の面から「マイクロウェーブ方式」しかないと考えており、そのためには電波免許も必要でした。免許取得には行政との折衝を繰り返さねばなりません。
会合には、通産省出身の森山信吾さん(元資源エネルギー庁長官、のちにDDI初代社長)が同席していました。森山さんは、天下りではなく、稲盛さんに共感し、自らの意思で京セラへの入社を決めた方です。森山さんを交えた議論のなかで、許認可について共通の理解が得られた手応えがありました。稲盛さんはアグレッシブなだけではなく、人の意見を徹底して聞くこともできる。私は「これならやれるな」と思いました。
また稲盛さんは「日本の電話料金は高すぎる」と憤っていました。京セラの米国法人を訪れたとき、社員の長電話をみて、「電話代はどうなっている」と咎めたそうです。そのとき米国の長距離電話はとても安いことを知った。日本国内の長距離電話は当時3分400円。電話料金が高いのは、電電公社の市場独占で競争がないから。電話料金を下げなければ、企業も国民も困る。通信の世界に競争が生まれる仕組みをつくりたい――。
私はそんな話を伺って、「この人は、自分の損得で事業を始める人ではない」と思いました。