記憶の海岸

野蒜海岸(撮影:鈴木丈治)。

イングランド生まれ、松島育ちの仙台の高校生・鈴木さんは、東北の日本海側(山形、秋田)には1回しか行ったことがないという。

「中学校のときソフトテニス部の遠征で1回行って、それだけ。夏に山形の酒田に行ったんですけど、メッチャ遠かったです。暑かったし、セミうるさかったし(笑)」

先に登場した菊地桃佳さんも、仙台のデメリットは何ですか——というこちらの問いにこう答えている。

「仙台市から県内の他の地域に行く必要がないから、意外と宮城について知らないことが多い」

だが、仙台の高校生たちは「東北の被災地から来た若者」として合州国に迎えられた。この先も——たとえば進学し、上京し、東京のキャンパスで故郷の名を口にするとき、仙台の高校生は、自分が被災地から来たことになっていると気づくだろう。そのとき、彼ら彼女は何を考えるのか。

ここで、鈴木さんたち仙台の「TOMODACHIサマー2012 ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム」参加者と、連載第21回目《http://president.jp/articles/-/8112》に登場した石巻の高校生たちが中心となって行っている海岸清掃活動のことを記しておく。菊地さんが説明してくれた。

「名前は"Bare Foot Beach"です。きっかけは、他の団体主催の深沼海岸(注・仙台市若林区荒浜の海岸)清掃をやったときで、『海に流れてしまった瓦礫とか沈んでいるものとかを魚が食べてしまって、その魚を食べてしまった人間にも悪影響を及ぼすかもしれない』『もう一度砂浜を裸足で走り回って欲しい』っていう代表の方の話です。『砂浜を裸足で~』が名前の由来になりました」

"Bare Foot Beach"が海岸清掃を行った場所は、仙台と石巻の間にある野蒜(のびる)海岸。津波に呑まれる前は海水浴場があり、キャンプ施設があった。仙台で少年少女時代を過ごした者ならば、いちどは訪れている憩いの地だ。さらに昔には、ここに大きな港がつくられようとしていた。連載第41回目《http://president.jp/articles/-/8220》の宮古編で少し触れたが、ここ野蒜には明治10年代に、のちの横浜や神戸に匹敵する規模の巨大国際港が計画された。だが、建築初期段階の天災(暴風雨)で破壊され、予算不足の東京政府は築港計画を放棄する。

昨年末に刊行された『幻の野蒜築港——明治初頭、東北開発の夢』(藤原書店)で、著者の西脇千瀬(民俗学者)はこう書いている。

《野蒜築港の失敗の後に続く近代の歴史の中、結果として東北は食料や人材の供給地となっていく。そして東北は貧しく、後進的な場所であるというイメージが形成されてきた》(同書、p.3)

それから130年。その海岸で高校生たちがゴミを拾っている。菊地さん、場所が野蒜になったのはなぜですか。

「ピースボートさんが段取ってくれて、今、電車(注・仙台と石巻を結ぶJR仙石線)が普通運行してないから、仙台からも石巻からも通いやすいってことで野蒜海岸になりました」

鈴木さんもこの清掃活動に参加している。参加理由をメールで訊いた。

「野蒜は自分にとって1~7歳までの幼少期を過ごした場所だからです」

「できれば東北にいたい」という感覚はまったくない。東北の日本海側に行ったことは一度だけ、取材時には「日本にも縛られてないかんじです」と話してくれた鈴木さんが送ってくれたこの1行。

前掲書の終章で西脇はこう書く。

《確かに築港は約一三〇年前の出来事であり、当然、直接当時を知る人はいない。しかし、忘れ去られるほどに長い年月であるとも、インパクトが小さかったとも考えられない。何故語られる言葉は無くなったのか。そもそもそれは存在したのか。そして地域の記憶とは如何にして維持されるのか》(p.204)

たとえば菊地さんには「宮城について知らないことが多い」ことが仙台のデメリットだという自覚がある。たとえば鈴木さんには幼少期の思い出が野蒜にある。東北の記憶と出合う手がかりが、そこにある。「なんでもある街」の高校生が、石巻の仲間たちと一緒に野蒜海岸でゴミを拾うとき、だれかが、自分たちが暮らす街と地続きの「東北」とは何なのかを考え始めるのかもしれない。そこには今、300人の友だちがいるからだ。いちど忘れ去られた「地域の記憶」が再生されるとすれば、そういう姿なのかもしれない。

最後に登場するのは、仙台市内の自宅から朝5時半に起きて市外の高校に通う3年生だ。

(明日に続く)

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