住友が勢いを増し、銀行の支店数では三井の約4倍に

5代目総理事・湯川寛吉は優秀な人物で、彼は1915年に住友銀行常務(行務総轄者)に就任し、25年の総理事就任にともない離任するが、翌26年に社長の住友吉左衛門友純が死去すると、取締役会長を兼務している。

左:住友5代目総理事の湯川寛吉、右:住友家15代当主の住友友純
左:住友5代目総理事の湯川寛吉(画像=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)/右:住友家15代当主の住友友純(画像=住友史料館所蔵品/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

住友銀行は湯川の常務就任時(1915年)に23店舗しかなかったものが、常務離任時(1925年)には57店舗、さらに会長離任時(1930年)に81店舗と倍々ゲームで店舗数を増やしている。支店数の急増で支店長にあてる学卒者(大卒・高商卒)が足りなくなり、商業学校卒で充当したのではないか。戦後においても、住友銀行は熾烈な人事競争を展開した「モーレツ」企業だったが、その萌芽は支店長クラスに比較的容易に昇進できる戦前の人事構造に内包されていたに違いない。

住友財閥では1907年から一括採用をはじめたが、思うような採用が出来ていなかった可能性が高い。住友では採用時に配属先の希望を聞いていた。おそらく東京大学文系卒は本社・銀行以外を希望しなかったのではないか。鈴木馬左也が採用に時間をかけたのは、住友ブランドでは思うような人材が簡単に集まらなかったので、熟考せざるを得なかったのだろう。その結果、人材の層の厚さも不十分で、銀行では商業学校卒で充当せざるを得ず、銀行以外では何社も渡り鳥をする経営者層が出現したのではないか。

住友銀行と三井銀行の店舗数・1936年まで
 出典=『財閥と学閥