住友銀行は他社と人事交流がない「独立王国」だった
当たり前ではあるが、化学科卒は住友化学工業に多く、電気科は住友電気工業、機械科は住友金属工業が多い。これらに対し、住友鉱業には採鉱冶金科がいない。住友財閥は三井・三菱に比べて鉱山経営の規模が小さかった。採鉱冶金科の学生にとって、同社の魅力が低かったのだろう。
一方、東京大学文系であるが、住友銀行(22人)、住友信託(12人)、および住友本社(18人)が圧倒的に多く、この3社で全体の3分の2(65.8%)を占めている。住友信託は1925年に設立された比較的若い企業で、銀行からの転籍が多いと想定される。住友銀行は他社と人事交流がない「独立王国」であるから、東京大学文系の多くは住友銀行(+住友信託)に振り分けられたと考えるべきであろう。
なお、各社の事実上のトップ(専務・常務を含む)の学歴を調べたところ、すべて東京大学卒だった。住友財閥は結局、東大閥だといえるのだろう。

商業学校卒でも住友銀行の支店長にはなれた
次いで、商業学校卒が42人(12.7%)と異様に多い点についてであるが、1940年の三菱財閥では253人のうち、商業学校卒が10人(4.0%)、三井財閥は350人のうち10人(2.9%)で、商業学校に類する師範学校卒などの3人を加えても13人(3.7%)に過ぎない。両者に比べて、住友財閥における商業学校卒の人数は他を圧倒している。
商業学校卒の多くは住友銀行行員である。実に42人のうち、27人(64.3%)が住友銀行なのだ。ただし、商業学校卒のほとんどは支店長止まりで、課長が一人いるに過ぎない。これには、住友銀行の支店数が三井銀行・三菱銀行に比べて多いことが関連している。1930年代後半の支店数を比べると、三井銀行が22店、三菱銀行が25店に比べ、住友銀行は79店舗。その差はおおよそ3倍以上あるのだ(ちなみに、傘下の銀行を大合同した安田銀行は128店舗! である)。
