社長は株主サイドに立ち、実務は常務・専務に任せていた

だから、日本を代表するような大富豪は幾つもの社長を掛け持ちして、もちろん毎日出社したりしない。他の取締役だって同様である。しかも、彼らは会社を作るカネは持っているが、肝心の鉄道路線を敷設したり、列車の運行を進めていくノウハウがない。

そこで、そんなノウハウがありそうな人物を連れてきて、常務として会社を運営させる。常務たちの親分として、実質的な会社のトップくらいになると専務である。つまり、社長と取締役が株主の代表で、実質的に会社を運営していくのが専務と常務。そんな布陣の会社が少なくなかった。

鉄道会社だったら「どこそこに鉄道敷くべ」「そんなにカネがかかるんだら、複線は止めて単線にするべ」などと方針を決めるのは、株主の代表たちが集う取締役会である。その取締役会の議決事項を受けて、専務・常務以下が会社の運営を担っていたのだ。

のどかな時代が終わり、敗戦で社外取締役はいなくなった

戦前に多くの会社を作った岩崎清七という人物がいた(岩崎といっても三菱財閥とは無関係である)。かれはある時「会社を作って社長は決まったが、専務がまだ決まっていない」と困りごとを漏らした。意訳すると、「出資者は集まったが、会社を運営する人材が揃っていない」ということだ。意訳しないと分からないのが、戦前の会社事情だったのだ。

岩崎清七氏
岩崎清七氏、岩崎清七『欧米遊蹤』(アトリエ社、1933年発行)より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

1945年、日本は敗戦を迎えた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領が行われ、財閥解体がはじまる。財閥系企業の株式は従業員など一般庶民に売却され、一時的にせよ大株主は居なくなった。主だった企業の常務以上の役員は役職を追われ(公職追放)、独占禁止法が制定されて役員の兼任が禁止された。莫大な財産税が課せられ、資産家層は没落した。

ここで、社外取締役はいったん退場し、内部昇進型の取締役の天下となる。戦前でも、当該企業に就職して、昇進を重ねて取締役になった人物が皆無だったわけではない。ただ、企業によっては、おそろしく大変だった。