精神的に限界をむかえたころ…入った1本の電話
翌日、八芳園に柳井さんの姿は無かった。
「余震の可能性もありましたし、電車に乗るのが怖くなってしまって。なにより陸前高田の母と祖母に連絡がつかないことが気がかりで、当時は、とても仕事に行ける精神状態ではありませんでした」
柳井さんは、母親と祖母と連絡を取るために頼れるものは全部頼ろうと決め、「母と祖母の安否を確認したいのです」と自衛隊にも連絡した。
「とにかく必死でした。そしたら、女性の自衛官の方が、『近くまで行きますので目印を教えてください』と言ってくださって。でも何しろ田舎なので目印となるものがありません。『ぽつんとある一軒家です』と言ってなんとか探してもらいました」
しかし、その後受けた報告は『そのあたりはすべて津波で流されています』という絶望的な内容だった。母親と祖母が苦しんでいるのに自分だけご飯を食べるわけにはいかない、という罪悪感でご飯が食べられず、柳井さんは5日間で7キロ痩せたという。
極限まで追い詰められた数日間を送った柳井さんのもとに、突然、一本の電話が入った。なんと、母からだった。
「母も祖母も無事だよ、と連絡が入って。涙があふれました。自衛隊が用意してくれた衛星電話というものを使って、1分だけ連絡が取れたようです」
「竜のように上がってくる津波を見た」
高台にあった実家にいた母親と祖母は、高台を昇り竜のように上がってくる津波を見たという。1分の電話のあと「なんとかして母と祖母の顔を見たい」「見ないことには安心して仕事に戻れない」と思った柳井さんは、陸前高田市に行くと決めた。
そうは言っても、まだ公共交通機関は止まってしまっている。友人の力を借りて、車で4日程かけてなんとかたどり着いた。
「まず新潟まで行って、そこから秋田県に入りました。そこから横に進んで行って陸前高田市へ。車を出た途端、ツーンと潮のにおいがしました。実家へ行くと、母と祖母がいて無事再会することができました」
実家は半壊していて、中も水浸しでベチャベチャになっていた。
「余震で帰れなくなると困るので食料を渡してすぐ帰りましたが、私が仕事に戻るためには絶対に必要な時間だったと思います。母と祖母に会わせてくれた友人には本当に感謝しています」
津波の被害はあまりに重く、柳井さんは、親族や友人の多くが亡くなったことを後日知ることとなる。


