津波が故郷を襲っていた

半年ほど経ち仕事にようやく慣れてきた2011年3月11日、八芳園で勤務中に東日本大震災に襲われた。

「一時、地震かどうかもわからないぐらい激しく揺れて、とっさに近くにあった食器棚を押さえたのを覚えています」

押さえている横で、別の食器棚から皿が飛んでいくのが見えた。その日は結婚式が2件入っているほか、海外からのゲストの対応と、幼稚園の謝恩会の準備をする予定だった。

「すでにみなさまいらっしゃっていて、現場はたくさんの人でパニックになっていました。『落ち着いてください』とお客様を一人一人なだめることしかできない状態で。状況がわからなかったので、大きい部屋の上の方についていた数台のモニターをすべてニュースに切り替えたのです。そこで、とんでもないことになっていることを初めて知りました」

モニターに映っていたのは、故郷・陸前高田市を津波が襲っている映像だった。

ニュースに流れるなまなましいテロップや映像

「津波で流されているのが見慣れた風景の街並みだと気づき、叫びそうになりました。ニュースでは現地の被害状況を伝える生々しいテロップだとか、私の母の実家として慣れ親しんだ気仙沼が燃えている映像やらが出てきて、『どうしようどうしよう、でもいまはお客様を最優先に考えないと』と」

平静を装って現場を回る中、何度も、故郷にいる母と祖母のことが頭をよぎった。

「母が、前日まで東京に遊びに来ていたのです。私の働く八芳園の庭園で桜が見たいと言うから、二人で花見をして。さっきまで母のお土産を社員さんに配っていたぐらい、直近の出来事でした。母の行動パターンからして、東京で道草していることは考えづらく、絶対にもう陸前高田にいるだろう。そう考えては『なんで私は、母の滞在をもう1日延ばさなかったんだろう』とやりきれない気持ちでいっぱいでした」

東京も混乱状態にあった。

「破片が飛び散って使えないフロアもあったので別館の大広間に集まっていただいて。ありったけのお水をかき集めては配り、施設中の寝具や布を敷いて避難所にしました」

海外のゲストはそもそも地震を体験したことがなかったようで、何が起こったのか、ひときわ混乱している様子だった。柳井さんは「これはアースクエイク(地震)ですよ、大丈夫ですよ」と声がけをすることから始めて、とにかく落ち着いてもらうことに必死だったという。

一晩を東急線の中で過ごして…

柳井さんは、今まさにニュースで流されているのが自分の故郷だと言い出すことがどうしてもできなかった。受け止めることができない状態だったということもあるだろう。

「『社員さんの中で地元が東北の方はいらっしゃいますか?』と呼びかけながら、公衆電話の列を整備していました。ニュースのモニターを見てしまったら次はもう正気でいられないと思って、周りのケアに集中することにしました」

一通り落ち着いたのは、あたりがすっかり暗くなった22時頃。直属の上司と横並びで津波の映像を見て、柳井さんは泣いた。「あの流されているの、うちなんです」。一日押し殺した声だった。

「上司が帰るように言ってくれて、唯一動いていた東急線に乗りました」

できるだけ家に近い駅まで電車で行こうとしたが、結局23時から翌4時頃までは電車に閉じ込められることになった。車内で待つしかない人々は、どの人もみんな苦しそうだったという。

「駅まで迎えに来てくれた夫の顔を見たら、また泣けてきて、止まらなくなってしまい。ひとりでは立てない状態の私を夫が支えてくれて、なんとか家に帰ることができました」