グラビア雑誌が若い娘に影響を与えた
花魁のファッションは時代ごとにかなり変遷があるが、確実なのは、時代を下るごとに華やかになったことである。
着物を何枚も重ね、裾は丸くして「ふき」という綿を入れて厚みを出し、大きな板帯を結ぶ。髷を横に倒して結った横兵庫という豪華な髪型に、簪や笄を何本も挿す――。このような、よくイメージされる花魁ファッションが登場したのは、安永から天明にかけて(1772~1789年)。まさに蔦重が活躍した時期だった。
安永5年(1776)に蔦重が、人気絵師の北尾重政と勝川春章に競作させて出版した錦絵本『青楼美人合姿鏡』にも、吉原の各見世が自慢にしている花魁たちが描かれている。しかも、花魁道中や客をとっている姿ではなく、季節の風物とともに芸や座敷遊びに興じる日常の自然な様子が描かれ、着物の細部まで手の込んだ多色摺で入念に描かれている。これがまたタレントの写真集さながらに、若い娘にも影響をあたえたようだ。
花魁道中の衣裳でなくても、花魁たちのファッションや髪型は、一般の江戸の娘からしたら非日常的で、それゆえにあこがれの的になったようだ。まねる娘が続出し、親が嘆くケースさえあったという。
田沼政治によって生まれた「バブル」
安永から天明にかけて、映像等でよく見る花魁のファッションが登場したわけだが、時期をもう少し広くとって宝暦から天明にかけて(1751~1789年)は、「宝暦・天明文化」が開花した。江戸の文化といえば、「元禄文化」と「文化・文政文化」が知られ、この2つが教科書にも掲載されてきたが、近年では田沼意次の時代と重なる宝暦・天明文化が注目されている。
この時代、商業が発展して貨幣経済が進行し、幕藩体制の基盤である米が経済に占める割合が小さくなってきていた。この流れにあらがわずに経済の実態を肯定し、商業重視へと経済政策を大きく転換させたのが田沼だった。

その詳細をここに記す余裕はないが、財政も物価も安定し、貿易収支も黒字に転換。結果的に、田沼は反対派に追い落とされて改革は頓挫するが、少なくとも田沼時代には商人たちが利益を上げ、その金が市中に流れた。また、政治や社会も文化に寛容だったので、あらたな文化が花開いた。花魁のファッションが豪華になったのも、そうした時代背景があってのことだった。
農業に支えられた経済から商品経済へ、という田沼の改革は、早すぎたゆえに頓挫した。その経済はバブルにたとえられることもあるが、たとえば、金銀の含有量を高くたもちながら貨幣発行量を増やし、財政も物価も安定させるなど、じつは堅実なものだった。