花魁はアイドルでありスターだった

ところで、吉原にはもっとも多いときで約6000人もの女郎がいたというから、ガイドブックでもなければ歩き方もわからない。

『吉原細見』には、どんな見世(女郎屋)があり、そこにどんな女郎がいて、それぞれの揚げ代(遊ぶのにかかる費用)がいくらで、という情報がみな掲載され、かゆいところに手が届いていた。見世の格も、女郎の階級も、最新の情報が一目見てわかるように記号化されていた。

ただ、情報はすぐに古くなるので、毎年正月と7月の2回、改定して新版が出された。そのたびに見世の廃業や新規開業、女郎の廃業や新規出し、出世などがあるので、それらを1軒1軒、1人1人調べる必要がある。それは「改」の重要な仕事だった。

そして、『吉原細見』に源氏名(女郎や芸者の仮名で『源氏物語』の巻名をつけたことに由来する)が載せられた女郎たちのうち、名高い花魁たちにかぎれば、江戸のアイドルでありスターでもあった。

吉原の女郎たちの大半は、表向きは奉公していることになっていたが、現実には貧しい親の手で、女郎屋に売り飛ばされていた。彼女たちは親の借金の担保なので、客をとれるようになってから10年は、狭い吉原に閉じ込められたまま「奉公」して返す義務があった。

だが、そのように不幸な境遇に置かれた奴隷のような娘たちが、男性はもちろん一般女性にとってもスターであり、ファッションリーダーだったのである。

磯田湖龍斎『雛形若菜の初模様 扇屋内あやめ』[出典=東京国立博物館より加工。
磯田湖龍斎『雛形若菜の初模様 扇屋内あやめ』[出典=東京国立博物館より加工。(東京国立博物館 研究情報アーカイブズ)] 

最先端のファッション広告

そうなった一つのきっかけには蔦重が関わっている。第4回「『雛形若菜』の甘い罠」(1月26日放送)で、蔦重は地本問屋の西村屋与八(西村まさ彦)の提案に乗り、共同で『雛形若菜初模様』という連作錦絵を出版した。

吉原の花魁たちに、呉服屋が売り込みたい着物を着せて錦絵にすれば、宣伝になるから呉服屋が制作費を入銀(本の出版前に事前に納める金銭)してくれる――。そんな発想から生まれた企画だった。

ちなみに錦絵とは、鈴木春信が明和2年(1765)に完成させた多色摺の木版画である。春信も吉原の女郎を数多く描き、反響は大きかった。男性はだれでも自由に出入りできた吉原だが、女性は退出時に女郎の逃亡とまちがえられる恐れがあるので、出入りに制限があった。ところが錦絵が登場すると、江戸の女性たちは、生ではなかなか見られない女郎たちの絵姿を、美しいカラーで見られるようになった。

なかでも磯田湖龍斎が描いた『雛形若菜初模様』は、呉服屋が次の正月に売り出して流行らせたい着物を着ていて、現代でいえば、最先端のファッション広告だった。江戸の娘たちがその姿にあこがれたのも当然だろう。