そもそも不平等が人生のデフォルト
そもそも、誰しもが自分の望む高校に必ずしも行けるわけではありません。居住している国や地域、経済力(高校無償化が進んできてはいますが)や学力など……さまざまな制約の中で、学校選択はもちろん人生の選択をしていく必要があります。良しあしの問題ではなく、ある意味人間にとって、不平等はデフォルト。誰もがさまざまな不平等の中で自分にできる選択をして生きていかなくてはならないのです。
ジェンダーに絡んだ問題だからとナーバスになり過ぎている一面は否めないと思います。
男女が共に生活することの意義
今回、埼玉県教育委員会は「高校3年間を男女が互いに協力し、学校生活を送ることに意義がある」と示しました。また、県実施のアンケートの共学推進派の主な意見としても「男女共同参画やジェンダー平等に対する理解が進むから」「性別による固定的な役割分担意識を持ちづらいから」などがあがりました。
これらはすべて、男女が生活を共にする環境こそ、ジェンダー平等の意識を育てる、という思考に基づくものと思います。
しかし、男女共同参画基本法が成立してから約25年経ってもいまだにジェンダー問題は多く残っています。男女が一緒に高校生活を送るだけでジェンダー平等が達成できるほど、この問題は甘くはありません。
共学的な環境が逆に「男子は理系、女子は文系」「男子は生徒会長、女子は副会長」のようなジェンダーバイアスを生徒たちに植え付けてしまうケースも大いにあります。
ジェンダー観の歪みがいまだにある社会と同じ構成である環境だからこそ、その歪みを学校にもたらしてしまう可能性もあるのです。
とはいえ、異性の目からは逃れられる別学の環境だからといって、必ずしもジェンダー平等の意識が備わるとも一概には言い難いでしょう。
要は、個人のジェンダー観や性役割観は単純に「共学だから~」「別学だから~」という理由だけで醸成されるものではないのです。ジェンダー平等に向けては、ジェンダー問題の重要性を認識し、学校側がいかにジェンダー教育をしているか、そして、生徒がいかに真剣にこの問題に向き合っているかが大切なのではないでしょうか。
興味深いことに、県実施のアンケートでは「別学」賛成派の主な意見としても「共学」推進派と同じ「『男子は○○』『女子は□□』といった固定的な役割分担意識にとらわれないで学校生活を送ることができるから」
という意見があがっています。
両者で同じ意見があがるということこそ、性別役割分担意識に関する問題は共学か別学かで語れないという証拠なのではないでしょうか。