「うちの娘があんたの子と何かあったらどうすんの?」

それからは、学校で純平くんと同級生が「遊ぼう」と約束して来ても、必ず、親から断りの電話が入るようになった。遊ぶのを楽しみに帰宅した小学生の男の子にとって、それはどれほどつらいことだったか。近所に住む専門職の母親が、突然電話をしてきて「うちの娘に近づかせないで。うちの娘があんたの子と将来、何かあったらどうすんの?」と言われたこともある。当時小学2年生のかわいい息子へのあまりの言葉に坂本さんは、言葉を失った。

そこで、坂本さんは学校にも親にも、里親制度のことを説明し続けた。このままじゃいけないと思ったのだ。純平くんたちは、社会で育て、守っていかなければいけない子供なのだと。

「純平と妹、この子たちを守れるのは私しかいないと思って。世の中の人に、里親制度を正しく受け止めてもらおうと話し続けました。子供のせいじゃないのに、差別はおかしいだろうと。だけど当時、里親なんて本当に珍しかったからか、誰一人、聞く耳を持つ人はいなかった」

最後の夜に純平くんが言ったこと

純平くんは次第に、学校へ行けなくなっていった。児相に状況を改善するためのアドバイスを求めたが、児相の結論は、純平くんを坂本家から引き上げることだった。引き上げられた里子は、そのあと一時保護所で過ごし、児童養護施設へ再入所することになる。

「やっとやっと、人生で初めて、みんなと同じ家庭を得たのに。子どもの立場からすれば、こんなに残酷なことはない。彼は、最後まで『この家にずっといたい』と言い続けていました。わたしもふくめ、みんな『子どものために』と話し合い判断するけれど、子ども本人の意思が尊重されることは多くなく、大人に振り回されてしまう」

家族で過ごす最後の夜、4人で外食をした後に車で家へ向かっていると、純平くんが「ぼくの学校を通って」と、父にお願いしたという。学校に着くと「お父さん、ゆっくり走って」と。

「あたりを見渡すと、校庭も校舎も真っ暗で。周囲には住宅が並び、その窓から煌々とした明かりが漏れ出している。それを見て、ああ、絶対に子どもを取り上げられない、家庭の光がこれだけあるのにって……。何で私たちは、離れなきゃいけないんだろうって。悔しくて、悔しくて」

学校を通り過ぎて、純平くんは静かにこう言った。

「お父さん、お母さん、ありがとう」

坂本さんは帰宅後、純平くんに1本のぶどうの木とその枝を描いた紙を見せて話をした。

「この枝はお父さんとお母さん、これは妹の友紀ちゃんで、これはあなたね。どこへ行こうと、みんな、この葡萄の木のように繋がっているんだからね」

翌朝、純平くんはその絵を持って、坂本家を出た。

「今振り返っても、気の毒すぎた。彼は小さいのに全部わかって受け入れて、御礼まで言って出て行って……。友紀も大好きなお兄ちゃんが急に連れられていっただけでなく、自分もそうなるかもと不安そうでした」

それからも、純平くんは時々、施設を抜け出してはこっそり坂本家にやってきて、一言の手紙が置いてあるなど、小さい目印をつけていったので、そのたびに「純平が来ていたのかな?」と坂本さんたちは話したという。夏休みの長期外出では坂本さんたちと旅行にも行った。そして中学卒業と同時に、純平くんは施設を出た。当時、施設の子たちは中卒で働く人も多く、今のように、その先の支援などはほとんど整えられていなかった。

「最後に純平が来たときは、お給料で買ったって発泡スチロールの箱いっぱいの魚介を持ってきてくれて。私が魚介を好きと知っていたので『お母さん、食べろ』って置いて行ってね……」